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2006年12月 4日 (月)

我が俳句論的転回

なぜ、こんなに俳句に溺れてしまったのだろうか。Photo_363
思うにそれは、ウィトゲンシュタイン及び野矢茂樹との出会いにあったのである。

すなわち、第一に世界の独特の独我論的見方である。
ウィトゲンシュタインにおいては,「世界を満たす」論理(形式)があって,これに存在を付与し,限界を引くのが主観なのである 。すなわち、「世界と生とはひとつ」(5.621)であり,「私は私の世界」(5.63)であり,「思考し表象する主体は存在」(5.631)せず,「主体は世界には属さない.それは世界の限界である」(5.632)といえる.従って、独我論を徹底することによって,世界を成り立たせているもの,世界を存在させているものこそが「私」であり,それゆえに純然たる実在論となる。これがウィトゲンシュタイン独特の独我論=実在論(私が存在を付与する。眼は眼を見ることができない)である。
従って、事実世界を論理世界に写像する俳句においても、私が存在を付与し眼は眼を見ることができないから、「私」は消失する。ここが徹底的に私歌である短歌との最大の相違点である。

第二に言葉の意味論である。将棋の駒が単体では意味を持たないのと同様に、言葉は言葉単独では意味を持たない。語の意味とは言語におけるその使用形態である。
俳句においても季語その他の語句の意味は古今の詩歌全体によって(語句は芭蕉以降更には万葉からの伝統を背負っている)定まるのである。だから、名句に出会って言葉の存在論的経験を味わうのが俳句のエロスとなる。

第三は世界の価値論である。俳句の書き手が現出させるのは事実世界から概念世界への写像までである。俳句にどのような価値を見出すのかは読み手に委ねられる。だから、書き手は主観を排して客観に徹するのが基本となる。語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

かくして、我は俳句に溺れたり。ウィトゲンシュタインは我が俳句の師なり。

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