真理と正義は一致しない@スピノザ
信仰と科学とは両立するかという問題がある。
聖書に現れた奇蹟(たとえばキリストの復活)を科学的に説明できないから、非合理的な信仰は科学の立場からは否定せざるを得ないという問題である。
換言すると、正義(キリスト教は愛を正義とする宗教と言えるだろう)と真理(科学は真理を追求する営みである)とは一致するかという問題である。
この問題に対して、ひとつは(1)不合理故に我信ずという立場。理性は信仰に道を譲るべきとするものである。もうひとつは(2)奇蹟など聖書に現れた非合理はなんらかの比喩であるとして合理的に説明しようとする立場である。これは正義と真理は究極的に一致するという考え方である。神の存在を合理的に証明しようとしたデカルトもこれに属する。
ところがここに第三の立場(3)スピノザがいる。彼はデカルトと同じ合理主義者でありながら、「理性は真理と叡智の領域を、神学は敬虔と服従の領域を」と主張して、信仰と科学とは次元が異なる→無関係だとした。
上野修「スピノザ―「無神論者」は宗教を肯定できるか」 は読みやすくわかりやすいスピノザの宗教思想入門書であった(同じ著者にスピノザの哲学入門書「スピノザの世界―神あるいは自然」があるようで現在図書館にリクエストし読書終了→肯定と赦しの哲学)。
著者によるとスピノザの信仰は「啓示宗教は真理を教えない。信仰は無知であってかまわない。よって、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する」というものであった。つまり、正義と真理は一致しない。無関係だというのである。この過激な思想は、デカルト主義者からも無神論だとして非難を浴びたそうである。
さて、ここからが俺の哲学的妄想である。俺はかねてから世界の三層構造を提唱している。これに上のスピノザの宗教論を貼り合わせると世界の見取り図は下のようになる。
価値世界 ⇔ 論理世界 ⇔ 事実世界
価値 構造・モデル 事実のみ
正義 真理 -
信ずる 疑う (味わう)
言語 経験
ウィトゲンシュタイン 西田幾多郎
そうなのだ。事実世界(純粋経験)を出発点として、哲学は論理・モデルを語れ、思想は価値・倫理を語れ、思想と哲学は峻別せよ。なぜなら、哲学は疑うこと、思想は信ずるものなのだから。そして、疑うことと信ずることとは相反するのだから、真理と正義は一致しない。スピノザはこの単純な事実を指摘したにすぎないのである。
繰り返す。正義(思想)と真理(科学・哲学)は一致しない。両者が一致すると思うことから理性の暴走が始まり、思想を異にする人々への抑圧・弾圧・虐殺が発生するのである。革命と戦争の20世紀を思い出せばこのことは明らかである。また、アメリカ帝国主義は大量破壊兵器の存在を口実に正義(民主主義)をかざしてイラクを侵略したことを思え。
「人生いろいろ」とは「正義もいろいろ」ということである。大切なのは、正義は、そして真理も間主観的に構成されるべきものだということである。われわれの主観から独立して正義も真理も存在しているのではない。スピノザはそんな常識的なことを語ったのである。
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