存在論@「エティカ」を読む(2)
存在論っていったいなんのことやろか。
「そもそも最も根源的に存在するものはなにか、さまざまな様態で現実に存在するもの、根本的な実体を伴って存在するものとはといった問題に取り組むもの」とあるけれど、いまいち実感が伴わない。
そこで、例を挙げよう、海。
海が存在することを否定する人はいないだろう。川もそうだな。では、海と川との境界をはっきり線が引けるだろうか。更には雲とか雨、これらも海・川と合わせて地球上の水の循環システムとしてひとつのもの(実体)といえるのではないだろうか。
つまり、ここでは個物と系(循環システム)のいずれを実体として捉えるかが問題となっている。
同様のことが生命系についても言える。サルでもヒトでも虫けらでも更には植物も全部まとめて生命循環システム(食物連鎖)として実体ではないのか。
スピノザは、実体=自己原因=神として水、生命、更には地球もっと言うと宇宙全体をひとつの循環システムと捉えてこれを唯一の無限実体自己原因とした(神即自然)。そして、個々の物は様態(実体がその属性を限定したもの)であるとした。宇宙の水循環システムのそのまた限定が海という訳である。
だってそりゃそうだよね。スピノザは実体を「その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもの」と定義しているのだから最も広い概念(宇宙全部)のみが実体とならざるを得ないよな。
そしてまた、後に出てくる感情論もこの実体のコナトゥス(自己を維持しようとする力)から導かれる。
コナトゥスもわかりにくいから、実例で考える。物体でいうと慣性力。生命でいうと生命力。もっと広げるとエネルギー(質量とエネルギーの等価性原理@アインシュタイン)になる。おおそうか、ビッグバン=物質の生成まで遡ると神即自然=エネルギーなのだ。
要するに、究極の実体は宇宙全体のエネルギー・物質循環系。物質も生命もその様態(属性の限定物)に過ぎないのだ。以上からエティカの基本思想の(1)が導かれた。
(1)唯一の実体(自己原因。デカルトは精神と延長という実体二元論、スピノザは無限実体一元論)は神即自然=事実である。無限実体から様態(実体の変様)が産出される(論理モデルを抽出する)。←概観@「エティカ」を読む(1)参照。
海見れば遠き記憶の甦る遺伝子の神生命の連鎖
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