春の水の句@春の水人間たかが百年余
神即自然、全ては無限循環系である。
春の水人間たかが百年余
証言・昭和の俳句〈下〉の中村苑子(平成十三年に八十七歳で逝去)の項に凄い話があったので記録しておく。
人間の原始は「水」と思った
苑子の夫は戦死したのだが(戦後だいぶしてから高柳重信とパートナーシップ関係)、その17回忌を機に墓を佐渡から東京に移転するべく掘り返して骨壷を開けてみると「骨が何もなくて、薄い黄色い水が底のほうに少し溜まっている」だけだったそうだ。苑子はこの経験から句集に「水妖詞館」という書名を付けた。
この話には続きがあって、これを雑誌に書いたら読者から「私の夫は別れてから遺骨になって帰ってきたが、骨壷を開けてみたら水だった。誰にも言えず、ずっとしこりになっていたけど、記事を読んでほっとした」と便りが来たそうだ。
掲題句はこの話を読んでの感想駄句である。
一つ根に離れ浮く葉や春の水 高浜虚子
暮れつつも物ながれゆく春の水 多田裕計
腰太く腕太く春の水をのむ 桂 信子
一桶の春水流す魚の棚 渡辺水芭
虚子の句は名句だ。花鳥諷詠とはこのことだろう。そして全ては生命(循環系)である。
※写真は苑子の生前墓。高柳重信の墓と並んでつくった。中村苑子から勝手拝借/感謝です。
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コメント
こんばんは
ハイクブログでは
コメントありがとうございました。
時々、寄らせてもらってます。
「大地に返る」という言葉がありますが
中村苑子さんの記事を読んで
人間は「水に返る」のだなあと
しみじみ思いました。
土曜日さんのブログは色々勉強になります。
投稿: あかね | 2007年2月16日 (金) 午後 10時32分
ありがとうございます。励みになります。丹精します。
投稿: 土曜日の各駅停車 | 2007年2月17日 (土) 午前 04時37分