走馬燈@なんやかやあつたけれども走馬灯
なんやかやあつたけれども走馬灯
ふっと思いついた句。関西弁で面白いかなあと思ったけれど、こうして掲載してみるとそれほどでもない。作者には万感こめたき気持ちもあるが、それが主観の域に留まっているということか。
写真は薬師寺の金堂、その向こう右奥が西塔。こうやって写真俳句にすることによって薬師寺の伽藍の配置が記憶に残る効果はあるというべきである。
人の世の影ばかりなり走馬燈 山口青邨
病み痩せて長き手足や走馬燈 石田波郷
おもかげは横顔ばかり走馬燈 本郷昭雄
首ふり亭主尻ふり女房走馬燈 中村草田男
記憶は横顔ばかりの影にすぎず、その実体は「いま、ここ」にしかない。しかし、他方、人の同一性(アイデンティティー)の根源をなすのは彼または彼女の記憶である。だから、人間とは、たまゆらの実体「いま、ここ」に長い影(記憶)が付随している現象ともいえる。つまり、俺は現象、全ては主観であり記憶(影)にすぎず。
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