前の記事について
なんかうまくアップロードできないみたいだけれど、ニュアンスは伝わりそうだからこのままにしておく。見苦しくてごめんなさい。
イザ!の阿比留記者が昨日の両党首会談後の関係者インタビューを記事「福田・小沢両党首会談に困惑する公明党と怒る共産党」にしてくれている。新聞にせよテレビにせよ、都合のいいところ・受けのいいところたわけを(恣意的に)ピックアップするのに対し、こうして全文(に近いだろう)流してくれるのは面白い。これがネットの強みである。
では、ここから俺が恣意的に(瑣末だけれど)面白いところだけをピックアップ転載させてもらおう。まず小沢氏インタビュー。
記者 小沢代表は密室の会談をやらないと言ってきたが、何で密室になったのか。
小沢氏 なんで密室での会談なの?総理から話し合いをしたいというから、それを2人で話し合いをするのは嫌だ、というわけ? 変でしょ。話し合いをしたいと言ったから話し合う。国会の論戦については、国会でやるべきことはちゃんとやるべきだという方針は何も変わらない。密室でと言ったって、あんた方、周りにいたじゃない。ちゃんと公開、って話し合いの場を公開というわけではないけれど、みなさんにちゃんとお知らせして、正式に党首会談、 記者 小沢代表が出て行ったときは表情が硬かったが、会談ではどのような様子だったのか 福田氏 だっていつもこわい顔してるじゃない
ふふ。笑っちゃうね。阿比留記者は「記者への対応も、まだまだ癇癖を我慢して抑えているようですが、徐々に怒りやすく皮肉屋の地が出てきたように感じます。それが飄々とした持ち味だと評価されているうちはいいのでしょうが…。」とリードをつけている。こういうのが読めない新聞、見えないテレビは面白くないなあ。
あと、公明党、共産党のインタビューも収録されているが両方ともキライだからカット。興味がある方は記事全文を是非、読んで下さい。
先日の日曜日、天気がいいので横浜ランドマークタワーに吟行した。撮影についているのか、ホテルの玄関で反町隆史がロケしていてこれはチャンスと(例によって)盗撮しようとしたら目敏く見つけられて追われてしまった。しかたがないので展望フロアーで富士を眺めて機嫌を直した。富士はほんとに不二の山だ。この写真だけでは欲求不満なのでズームインした写真もつけておこう。 ちなみにランドマークに行くのならカード会員になるとお得。展望フロア入場料30%OFF、駐車場1時間無料の特典だけを俺は利用している。
君と来て君と見てゐる雨の月
先日の俳句王国、自由詠で「月の雨にぎり鋏の小さき鈴」若林由子という句が出されていた。手元の歳時記の季語「雨月 雨の月 月の雨」を引くと「雨のためあいにく名月が見られないことをいう。惜しい心持が一層侘しさを募らせる」とあった。いい季語だなあと思いその場で「月の雨下げたる株がまだ下がる」なる駄句を即吟した。そしたら、先週金曜日の満月の日(10/26)株式ネット中継ストックボイスの岩本さんが「雨でも満月」と書かれていたのでさっきの駄句を投稿してしまった。
本句は以上の経過を経て駄句の上塗りとして生まれた。株の句よりは風情があるだろう。写真は残念ながら論理的につけられない。雨の月は見えないのだから。
ストア派の哲学者、エピクテトスと自分で表現したけれど単なるストア派(禁欲主義者)ではなかったよなあ、と気になってネット検索している。見つかったエピクテトスの言葉を後々のためにメモっておく。
「自分自身の主人でない者は、決して自由でない」。
これに関連してこの記事を書いた方は「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」という 茨木のり子さんの詩を引いていらっしゃる。気に入ったよ、この詩。
次は、ストア派とエピクロス派との対比サイトからエピクテトスの主要な(と俺が思う)言説を転載したもの。
「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、一言でいえば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれの所為(せい)ではない一切のものである。われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されこともない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。」
「人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである」
要するに、エピクテトスは
物事は捉えようでなんとでも考えられる。大事なのは自分の心。自分の心の及ばないものにあれこれ囚われるから混乱する。心そのものは自由なのに。
と言っているように思うなあ。
さて、自由とは何か、という問題は善、徳、更には正義の問題とも関係している。今日のところは以上をメモした状態で止めておこう。そのうち発酵するだろう。
最後にオチ。以下に、上で引いた茨木のり子の詩の全文をhttp://www5.ocn.ne.jp/~ngekijou/ibaraki.htmlから転載させてもらう。いい詩だねえ。
自分の感受性くらい
茨木のりこ
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
こういう質問に対して
「心の中は何人(権力者)であろうが、【誰にも支配する事の出来ない空間】だと思っております。戦争中やその他の極限(悲惨)な状況下で【身体の自由は拘束】されたにしても、【心の中は自由♪】だと思います。v(^_^)v~♪♪」
という回答があってイタク感激した。
そして、酒見賢一に、確かギリシアのストア派の哲学者(精神の自由を謳歌した人)を描いた小説があったなあと思い出したら気になってネット検索してエピクテトスにたどりついた。この小説、ほとんど忘れているがまだうっすらと輪郭だけは覚えていることを見ると、読んだ当時はイタク感激したのだと思う。
ブログ検索して
「ギリシアものとしての薀蓄も楽しめれば奇想も奇妙な味も楽しめるバラエティに富んだ短編集です。オススメです。」推奨ブログ発見。ネットって面白いですネエ。
初案「秋の酒」でずっと在庫中だったが、さっき「酔」「酒」のダブりは短詩では省略すべきと悟って「秋の暮」に変えた。そこで次に写真が問題になるが、「秋夕焼わたくしだけの愛がある」の日の夕焼けしか使えるものがないので、もう一枚の(ほぼ同じ)写真を使った。
「酔ひて候」は司馬遼太郎「酔って候」から拝借した。拝借ばかりの人生だ。
身にしむや秋天富士に恋ひとつ
「身に入む」という季語を使ってみたかったちょっと無理筋の句(「秋天」も季語だから季重なり)。この季語の句には、言わずと知れた「野ざらしを心に風のしむ身かな」芭蕉がある。
写真は富士のビューポイントとして有名な山中湖、ホテルマウント富士の庭園からの撮影だ。この庭園、ロビー等ホテル内部を通らずに駐車場から直接に行けるようになっているから、気の弱い方はそちらがお勧めである。俺も今度はそのルートで庭園を楽しんで写真を撮ろう。
逆光をなんとか工夫すればよかった、この写真。
アバウトミーで質問をつくる楽しみは(1)選択肢をひねり出すことに加えて(2)適切な画像を探し出して貼り付けることだ。そして、この質問の画像はこれしか無い。我らが明日のジョーの燃え尽きたラストである。
ところで俺が心に思っていた模範回答は「時々燃え尽きてまた元に戻るのがええ」だっだが、「ゾンビや」と指摘を受けてしまった。なるほど道理である。燃え尽きたらさっさと死になはれ。
先日、山中湖石割の湯に浸かって外に出たら夕焼けだった。これは写真になると思い、カメラを引っさげて電線がフレームに入らない場所を求めて少し歩き回った結果の写真だ。
句はこれとは別に浮かんだもの。音楽も詩も記号世界における取り合わせの芸であると最近考え始めている。雲を記号とみればこれも音楽。富士との取り合わせの芸が成立しているだろうか。
アバウトミーでこの質問をつくったのは深層意識に永田耕衣の「少年や六十年後の春の如し」があったからだと今、気づいた。そして、アバウトミーの質問を作ったから「少年に帰る青空初紅葉」という拙句も生まれたのだろう。このように因果は廻る我が宇宙なのである。いつまでもこどもでいたい。
「少年や六十年後の春の如し」永田耕衣の本歌取りまたは挨拶句ないし鑑賞句だ。耕衣の句は少年と六十年後とが絡み合って時間が腸捻転しているような不思議な面白さがあるが、俺の本句は(当然ながら)そのような深みは全く無い。その分、わかりやすくなっているし、他方、俗臭が漂っているのである。いつか解脱したいなあ、初紅葉。
先日、多摩センターの極楽湯まで歩いて行った。30分はかからなかったと思うから、永山駅まで歩く20分とそんなに変わらないことに少々驚いた。
この極楽湯、二回目なんだけれど居酒屋チェーンが日帰り湯を併設しているような感じで、いつも行くいこいの湯とはまた違ったビジネスモデルである(こちらは料理の品数は少なく、源泉かけ流しが売り物)。
さて、どちらが将来性があるだろうなどと湯の中で考えていたら、老人が何人か団体でやってきた。サウナに入って風呂から上がると老人会は座敷で宴会を開いていた。やっぱり極楽湯の方が儲かっていそうだなあ。ちなみに極楽湯はジャスダック上場企業である。
写真は山中湖の石割の湯(山中湖村村営)。ここの露天、檜の湯はぬるくていつまでも浸かっていられる快感である。
ぬるき湯にじつくり浸かる快楽は子宮の記憶眠れる胎児
サンザシの実である。俺の歳の数ぐらいはゆうにあるだろうなあ。4~5月に小枝の先端に数個の大きな白い、散房花序(かじょ)をつけた花を咲かせるそうだ。ごく近所に植わっているのだが、これまで実にもそして花にも気づかなかった。俺はなんという人生を送ってきたのだろうとまたもや思う。
ところで「査」ではなく「木」ヘンに「査」が本字のようだ。デジタル社会ではしかたのないことかもしれないが。「わが夢の成らず山査子実となりて」春原順子。
ついでに「花の歳時記 秋」で山査子の隣の梅もどきの項にあった飯田龍太「大空に風すこしある梅もどき」、いい句だなあ。大空の風を発見する眼と手と口が違うのである。
ところで今夜は十三夜(後の月)。捻典さんのサイトの日刊この一句「埠頭まで歩いて故郷十三夜」松永典子で知った。「十三夜孤りの月の澄みにけり」久保田万太郎。
この質問、結構、コメントが盛り上がった。それと嬉しいのは(予想に反して)皆さんが価値相対主義的に考えていらっしゃること。(1)反帝国主義(2)自由主義(3)多元主義(4)社会的共通資本の重視という新左翼四原則の旗手を自認する俺としては(3)多元主義の土壌が豊かなようで喜んでいる。
さて、この質問に対する俺の回答を書こうと思ってネットでカンニング。たしかロールズの正義論というのがあったなあと検索してウィキペディア「ロールズ」が一番読みやすかった。これをかなり参考にして以下が俺の正義論である。
正義とは:基本的自由を保障した上で、社会の富を公正に配分すること
正義を実現するための原則(ロールズの二つの原理の焼き直し):
(1)自由と調和させるための原則:他人の自由を侵害しない限り、各人の自由は保障されるべきである。換言すると、格差是正の旗印の下に不当な自由の侵害があってはならない。具体的に金儲けの例では「他人の生命・自由・財産を侵害しない限り金儲けは自由」ということだ。おまえ儲け過ぎだからしこたま税金を搾り取ってやるはアカンのだ。
(2)社会的経済的不平等は次の条件を満たすこと
(a)公正な機会均等があること(b)積極的不平等是正措置は最も不遇な人々の利益を最大にするように公正であること
要するに、不当な差別があってはならないし、ハンディキャップがある人を優遇することも適切公正な範囲内であるべきということだ。
なるほど。正義の定義とそれを実現するための原則はわかった(としよう)。そこで、公正とは何かが次のテーマとなる。これもそのうちアバウトミーに質問してみよう。
俳句って無内容なほど名句だと思う。例えば、「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」飯田蛇笏の句に関して次のような鑑賞がある。
ここには、風景も、生活も叙べられようとはしていない。ただ一個の風鈴があるのみだ。俳句は何を詠うにしても努めて単純化しなければ十七字の短詩型に完き形と、整った声調をあわせ具えた表現はしがたいものである。語法の省略といった叙法の問題の以前に、この単純化ということが必要なのもこのためである。しかし、この風鈴の句は、単純化などをしていない。
俳句の根本は切れ。「や」「かな」「けり」という語法上の切れもあるが、それよりももっと広い意味での切れ(無数の森羅万象からある景を切り取るということ)が根本だと思うのだ。そしてそれは、単純化しただけでは足りなくて抽象化更には詩的結晶化がなければならない。その典型がこの蛇笏の「秋の風鈴」の句だと思うのである。
去年より又淋しいぞ秋の暮 蕪村
鈴が鳴るいつも日暮れの水の中 中村苑子
秋の暮大魚の骨を海が引く 西東三鬼
いずれも単純化・抽象化・結晶化した名句である。とりわけ三鬼の句、いのちの結晶だと俺は思う。そんな思いが本句(俺の駄句)の背景にある。日暮れて道遠し。
アバウトミーにとりあえず質問を出してみてから自分の回答を考えたら、お得意の世界三層スキーマ論(価値世界・記号世界・事実世界)に引っ掛けて次の答えが出た。
真実=事実+価値判断
価値世界 記号世界 事実世界
客観(間主観) ⇔ 心 ⇔ 実在
真実 事実
事実は実在(乃至その記号化)だから事実世界(乃至記号世界)の存在、これに対し、真実は事実に価値判断を加えたものだから価値世界(ないし記号世界)の産物である。 このことをモデル論的転回の言い方で言うと、事実は発見するものであるのに対し、真実は構成するもの(モデル)ということになる。そして、構成するモデルは多様であるから、真実は人それぞれ(但し、最大公約数は客観と呼ばれる)になるのである。これが事実は共通、真実は多様(間主観→客観)である所以だ。
昨日、朝吟行に出たらご近所のおじさんが「何か事件があったのかなあ」と話しかけてくる。見ればバス通りに何台も駐車している車の列。「でも事件だったら警察もいるもんねえ」「そうですねえ、いませんねえ」と会話した後に(暇と好奇心の俺は)車の列まで通りを横切って傍にいたおにいちゃんに訊いてみるとテレビ映画の撮影だという。
これはラッキーと思い、関係者がいる家の前へ行くと、なんと朝丘雪路が出てきた。後をついて行くと別の家の方へ歩いて行く。シャッターチャンスがあれば撮ろう、許可を関係者に求めると断られるから盗撮しよう、ちゃんとした写真は撮れないだろうなあ、と思いつつシャッターを押したのが本写真である。
撮った後、俺は逃げるように現場を離れたのだが、それでも逃げる際に関係者に「いつ放送されるの?」と訊いたら、来年という返事だった。後からの仄聞情報によると舘ひろしも出ているなんとかというドラマ、午後は舘ひろしも来たりして夜まで一日がかりの撮影だったようだ。練馬ナンバーのタクシーが駐車していたからスターの送り迎えなんだろうなあ。
ちなみに「朝丘雪路」ネット検索すると72歳、お元気である。あやかるための写真と句である。
紫式部の実を「実紫」「式部の実」などと季語になっている。紫式部の名も知らんかったなあ。俳句とデジカメのおかげである。
庭木として植えられるのはコムラサキで,これを「ムラサキシキブ」と呼ぶことが多いと思いますが,ムラサキシノブ(紫式部)というのは山野に生え,観賞価値はやや劣るかもしれません。とのことだ。勉強になった。
表題のフレーズは昔、三重県津のお客さんに教えてもらったもの。そうだなあ、と思いはしたがどうすれば面白くなるか、その秘訣はついにわからないままである。そこで、アバウトミーに質問して
→それから、「辛くてこの程度?(神様ありがとう)」というのはいいですね。辛くても目を開けていろよ、神様ありがとう、まんまヤンケ!
というヒントに至った。おいあくま=おこるな、いばるな、あせるな、くさるな、まけるなと共にマスコットにしよう、まんまヤンケ。
俺は自分が好きで好きでたまらない。まあ、それが生きる根拠だろうなあ、多分。自分が嫌いだったら生きてるのが辛いもん。そして、自分が好きだから自分が連ねる言葉を誰かに読んで欲しくてこうしてブログをせっせせっせと書いているのである。死ぬまで治らぬな、このビョーキ。
写真は八千穂高原自然園のオオカメノキ。別名ムシカリともいうそうである。
色鮮やかな茸を八千穂高原自然園で発見。食べられるのか毒なのか笑い茸なのかわからぬが、「笑ひ茸食べて笑つてみたきかな」鈴木真砂女を引いてみたくて一句をひねった。
人生、笑いは救いだと思う。
一般的な理解では、心は脳内現象(デカルトの心身二元論:「私」=身体+心)。でも、ようく考えてみると心は単なる神経細胞脳細胞の反応ではない。我々の心の大部分は記号(言語、美術、音楽その他)によって枠組みが形成されているからである(俺の言うところの記号世界)。
そして、記号とは社会的規約(将棋の駒=記号の意味は将棋におけるその使用規則と使用例)である。とすると、心は社会的現象ということになる。つまり、
「私」=身体(物理的化学的現象)+心(社会的現象)
という等式が成立する。換言すれば「心は身体内に生じている社会的現象」である。
だから、宗教において、心を無化する(仏教)とか神に帰依する(キリスト教)などという教えも成立する。脳内現象ではなくて社会的現象だからこそ、心を無とか神とかの記号に結びつけられるのである。もっと端的な別の例を挙げると人々の心の相互理解・相互影響も心が社会的現象であることの証左となる。
こんな単純なことに到達するのに西洋哲学はプラトン以来二千数百年を要した(聡明で健気な貴女に捧げる哲学史(5)自然に帰れ参照)。
そして俺は、「心は身体内に生じている社会的現象」という言明にたどり着くのに下のアバウトミーの質問がきっかけとなった。おお、この質問でバトル(社会的現象)が生じているではないか。
トリカブトの実物を初めて見たのは先日の句作再開のきっかけになった箱根湿生花園吟行。そして今回、八千穂高原吟行で再会し、これで完全に我が認識圏内に入った。
そこでようやく、「今生は病む生なりき鳥頭」石田波郷という絶唱をきちんと鑑賞できる素地が整ったのである。ちなみに、波郷、1969年肺結核で病没、享年56歳。俺は波郷の歳を越えて永らえている。あ、来年が還暦である、念のため。
作った後で失敗と小反省。というのも、男一般についてなのかミスターに関する質問なのか不分明だからだ。まあ、多義性は世の常ということでカンニン。
ところで、ある答えを拝見して発見→「心意気」を選択肢に設定すべきだった。心意気=誠実+勇気+優しさである。
初案「コスモスや愛し足りない私なの」だった。本句から美空ひばり「愛燦燦と」を連想したあなたはエライ。
ところで、コスモスの原産はメキシコ、日本には明治20年頃に渡来したとのことだ。この知識を知ってからコスモスを見るたびにメキシコ、メキシコと呟いている。
about meに出した質問。質問を作ること自体、選択肢を考えること、皆様の回答でハッとすること等対話の面白さがある。この質問で言えば、「魂」を選択肢に入れるべきだったと後から思った。私たちは「世間、社会、魂」の三つの世界を生きているのだから。たましひをそつと吐き出す蛍かな
答えた質問→203問、作った質問→26問。この数日の実績だ。
それに加えてマイページの「ひとこと」欄を歌集代わりに毎日一首、拙歌を連載している。あ、質問ができてしまった。「あなたは自分が好きですか?」。早速のっけよう。
麦草峠(前回)を降りて行くと八千穂高原自然園。ちょうど紅葉祭で豚汁を振舞ってもらって入園。一時間ほど吟行したら、何の木かわからないけど写真がうまく撮れたので一句。
先日、行きつけの薬屋に寄ったら秋のきりん草の盆栽があった。そして、八千穂高原自然園を散策したら(花はもう終わりかけだったが)また出会うことができた。これだけで俺は幸せと思うことが肝要である。人間、工夫次第で幸せになれるのである。
いま即興の一句。「秋の日や凭るべきものにわが孤独」木下夕爾を引きたくてなんとかひねった。
このところ週末といえば雨だったが、先週末は久しぶりの好天に恵まれた。八千穂高原を楽しんでヤッホーの湯に浸かって須玉から中央道に乗ったら大月から八王子まで35キロ渋滞。大月で20号に降りて帰路を辿った。まだ安全運転ができる歳である。
中央道を諏訪南ICで降りて麦草峠(国道で2番目に標高の高い地点)を越えたら八千穂高原。天は高いけれど空は近かった。そこで例句。「天高し人間といふ落し物」上甲平谷は一瞬ドキッとする名句だ。そして取り合わせには「天高く人生なんと恥多き」鈴木真砂女を和えよう。
麦草峠ヒュッテで昼食(カレーライス)。食後ちょっとだけ散策して草紅葉を発見。季語「草紅葉」を一度使ってみたかった。ほんとは燃えるような草紅葉に出会いたいのだが。
麦草峠ヒュッテ近辺散策中の秋の空。初案「女心」だったが即推敲。女より乙女の方が御しやすいと思うのではある。「はづかしやおれが心と秋の空」一茶。
次回は八千穂高原自然園。高原の小さな秋を堪能した。
回心のなかりし一生花野過ぐ
「アウグスティヌス 回心」で検索したら、アウグスティヌスの回心について納得できそうな文章に出会った。そのエッセンスは次の通りである。
アウグスティヌスはこの体験を通して、心の底深くに、その心を越えた別種の心があることを知った。「内なる超越」をすれば、そこにはもう一つの心がある。そして神はこの心に宿るのである。この体験的事実から、後年の彼は「心を通って神へ」というテーゼを唱道するようになる。
心を得ようと思うならば心を捨てよ。それが「心を通って神へ」というテーゼの意味である、と俺は理解した。つまり、こんなことをエラソーに書いている内はアカンのである。
ところで、写真の花はカクトラノオ。それにしても、「トラノオ」という名前がついた植物の多いこと。
季語「秋」の例句をいくつか。
秋さびしおぼえたる句を皆申す 炭太祇
行く我にとゞまる汝に秋二つ 正岡子規
いっさんにころげおちたし秋の恋 小沢信男
母とわが髪からみあう秋の櫛 寺山修司
秋は秋思である。人間、思うことがなくなれば手仕舞いであろう(ああ、言うてもた)。
昨日のクロ現「“就職氷河期世代”夢はつかめるか」がちょっとショッキングだった。 日本企業が中国大連で開いたコールセンター(内実はキャッチテレホンセールス)に中国人が集まらず、日本人が時間給300円で働いているという話だ。
就職氷河期にたまたま出くわしたばかりに正社員になれなかった若者(もう30を越えている)が中国で低賃金労働しながら中国語をマスターして正社員を勝ち取ろうとする「夢」である。ところが、雇う側の企業の眼は厳しい。中途採用正社員として雇うためには語学だけではなく知識、経験・人脈(要するに即戦力)を求めるからだ。雇用の二極化の現実を教えてくれる番組だった。
こういうドキュメンタリーを見ると、小泉就任演説「米百俵」を思い出す。かっこよく「米百俵」を打ち出して置きながら、これといった若者対策を実行しなかった小泉政権の偽善に腹が立つ。そして、若者がキャリアを身につけられないままに中高年化して行く日本の明日を思う。
俺の安穏な老後(年金水準維持)のためにも政府に労働対策(二極化そして就職氷河期世代)を実施させよう。清潔・安全・自由かつ公正な社会日本を世界の若者の働き場所にしよう(移民開国せよ、日本)。
桔梗寺は多宝寺。白い桔梗が咲いていた。紫の方に色気を感じるけれど、ここはせっかく白桔梗を見られたので白で句にした。「桔梗や男も汚れてはならず」石田波郷。この句の桔梗は「きちこう」と読ませる。
尾花寺は道光寺。「少年に愛す沼あり花すゝき」五所平之助。映画作家五所平之助は俳人でもあった。「生きること一と筋がよし寒椿」という句もある。
ついでにもう一句、薄。「をりとりてはらりとおもきすすきかな」飯田蛇笏。この句の「すすき」は抽象度が高い。いのちとか存在そのものを詠んでいるように思える。いや、そんな深読みは作者の意に反するか。全く無意味な句と受け取るべきかもしれない。ナンセンスこそ秀逸の極みである。
前回に今回が最終回と書いたけれどまだ続く。次回こそ最終回。七草以外の句である。
今年はめぐり合わせ当番で町内会長を務めている。その関係での感想句が上の句だ。勿論、一番取り扱いにむつかしいのは俺自身である。
ところで、葛の寺は遍照寺。花が終わっていたのが残念だが、葛餅を振舞って頂けた。葛は遍くそのあたりに生えている草だから来年は写真に撮ろう。見る目があれば花はどこにでもあるのである。そして遍照寺はいかにも秩父山里の寺という感じで心地よい寺だった。「男老いて男を愛す葛の花」永田耕衣。
ネット検索して女郎花の語源は女飯(おんなめし) → 女郎花(おみなえし)という説を見つけた。白は米、だから、男飯。これに対して黄色い粟は一段下だから女飯という絵解きである。それはそれとして、写真の花はオトコエシではなくて白い女郎花だと思うのだが間違っているだろうか。女郎花の寺、真性寺での所見。
ところで「面白きこともなき世を面白く住みなすものは心なりけり」は高杉晋作の辞世と言われている。晋作を主人公にした司馬遼太郎「世に棲む日々」は面白かった。 ちなみに、「世に棲む日々」で検索すると前首相の次のような訓示が見つかった。長州の(観念的)青年政治家らしい訓示である。
首相は司馬遼太郎氏の小説「世に棲む日々」を引用、組織に埋没して責任を取ろうとせず、定回避で問題解決を先送りする幕末の「ヤクニン」の姿を紹介。
「こうした行動様式は、皆さんが築き上げる新たな国家公務員像の対極に位置するものだ」と訴え、「まず、勇気と主体性を持って諸課題に取り組んでいただきたい」と呼びかけた。
長瀞七草寺吟行の続き、法善寺の藤袴。 盛りを過ぎてはいたが何とか花を見て(この歳になってようやく)認識することができた。右の写真は鐘楼と藤袴の取り合わせだ。
藤袴は、かつては日本各地の河原などに群生していたが、今は数を減らし、環境省のレッドデータブックでは絶滅危惧II類(VU)に指定されている。また「フジバカマ」と称する植物が、観賞用として園芸店で入手でき庭にも好んで植えられる。しかし、ほとんどの場合は本種でなく、同属他種または本種との雑種である。
そう言えばこの寺(法善寺)にもサキバ(鵯花)を藤袴として売ることもあるとの立て札があった。紀貫之の歌を立て札で教えてくれたりもしていて、万葉と古今の香りがするしっとりと情緒ある寺であった。次回に続く。
萩を秩父長瀞のお寺に見に行こうと思い立ち吟行。 たどりついて見たらもう既に終わっていた。残念だなあ、矢張りお彼岸の頃までに来なければいけなかったかと思いつつも、折角秩父まで来たのだからと長瀞の七草寺めぐりをした。
「指折り」は憶良の歌に倣って「およびおり」と読ませたい。 箱根湿生花園で憶良の歌を知り、この歳になってようやく秋の七草に親しもうと考え、こうして秩父長瀞で復習する機会を持ち得たのである。「秋七草嫌ひな花は一つもなし」鈴木真砂女。次回に続く。
いつも愛読している産経・阿比留記者のブログが安倍政権の整理を転載している。非常にわかりやすい整理なのでその結論を記録しておこう。
安倍政治がめざしたものを筆者なりに整理してみれば、要は①古い体制―古い自民党と「官僚内閣制」―からの脱却、②原理も原則もない自虐的な外交から新しい「主張する外交」への転換、③「開かれた保守主義」に基づく教育や社会政策の全般的見直し、④日本版NSCに代表される「官邸主導体制」の確立による国家戦略をもった政治の実現―といったものであったように思う。
反国家的保守主義者を最近自認するようになった俺としては、①②④は賛成(だって価値観の問題ではないんだもん)だが、問題は③「開かれた保守主義」だ。
この「開かれた保守主義」が内容不分明なので判断しがたい。そこでネット検索して、「開かれた保守主義」ってなんだろう等を読んだが矢張りわからない。しようがないから俺が想像するに、「開かれた保守主義」とは、
(1)「左」に対して開かれた保守主義。レフトウィングを積極的に取り込み可能な柔軟な保守主義(これでもよくわからんなあ)、
(2)グローバル化に対応した国家主義ということかと思う。
このうち、(1)は政治戦術の問題だから置くとして、(2)はそもそも論理矛盾を孕んだ概念だ。具体的に言うと、従来からの対米同盟(従属)関係を維持しながら国家主義を展開したいということなのだから、日米の利害の一致しない様々な局面で壁に突き当たる。今回の突然の辞意表明についても、イラク戦争支援と日本の国益維持との衝突に起因するのではないか。更にはブッシュ大統領から近々開戦予定のイラン戦争支援を要求されて懊悩した挙句の辞意表明との憶測まであるようだ。
今後、資本は益々無国籍化に向かう(儲かるのなら中国とも北朝鮮とも悪魔とも手を組む)。そして資本に支持されねばならぬアメリカ政権は強いドル・高い株価維持を第一の目標として無国籍化資本を支援する世界戦略を展開する(イラク戦争然り、ひょっとしてイラン戦争も)。イラン戦争まで起こされては日本は対米同盟を従来通りには維持できないだろう。それともアメリカと同様にイランを悪魔視して対米同盟を維持するのか。
イランで戦争を起こさずに済んだとしても、アメリカ(無国籍資本・ワシントン同盟)と日本の国家主義とはいつかどこかで決定的な利害の対立を迎える可能性がある。そのとき、「開かれた保守主義」はどうするのか。安倍政治の後継者たちの動きを見守りたい。
珈琲とジャズが青春秋扇
珈琲とジャズが青春秋の雲
季語が動いている。初案「秋扇」だったが、扇の適当な被写体が身近に無いことに加えて「秋の雲立志伝みな家を捨つ」上田五千石という佳句にも惹かれる。とはいえ、「秋扇」の渋いセンス(洒落やでえ)も捨て難い。そこで両案併記となった次第だ。
俺の青春時代は梅田新道の名曲喫茶「日響」。ここでマーラーにも出会った。しかし、クラシックでは句にしにくいのでジャズで一句とした。もっとも、ジャズも昔から嫌いではない。サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズが強烈な初体験だった。この名盤と幸い図書館CDで再開し、俺のパソコンにダビングしてある。
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