秋の暮いつもと同じ俺の顔
俳句って無内容なほど名句だと思う。例えば、「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」飯田蛇笏の句に関して次のような鑑賞がある。
ここには、風景も、生活も叙べられようとはしていない。ただ一個の風鈴があるのみだ。俳句は何を詠うにしても努めて単純化しなければ十七字の短詩型に完き形と、整った声調をあわせ具えた表現はしがたいものである。語法の省略といった叙法の問題の以前に、この単純化ということが必要なのもこのためである。しかし、この風鈴の句は、単純化などをしていない。
俳句の根本は切れ。「や」「かな」「けり」という語法上の切れもあるが、それよりももっと広い意味での切れ(無数の森羅万象からある景を切り取るということ)が根本だと思うのだ。そしてそれは、単純化しただけでは足りなくて抽象化更には詩的結晶化がなければならない。その典型がこの蛇笏の「秋の風鈴」の句だと思うのである。
去年より又淋しいぞ秋の暮 蕪村
鈴が鳴るいつも日暮れの水の中 中村苑子
秋の暮大魚の骨を海が引く 西東三鬼
いずれも単純化・抽象化・結晶化した名句である。とりわけ三鬼の句、いのちの結晶だと俺は思う。そんな思いが本句(俺の駄句)の背景にある。日暮れて道遠し。
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