エピクテトスの言葉
ストア派の哲学者、エピクテトスと自分で表現したけれど単なるストア派(禁欲主義者)ではなかったよなあ、と気になってネット検索している。見つかったエピクテトスの言葉を後々のためにメモっておく。
「自分自身の主人でない者は、決して自由でない」。
これに関連してこの記事を書いた方は「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」という 茨木のり子さんの詩を引いていらっしゃる。気に入ったよ、この詩。
次は、ストア派とエピクロス派との対比サイトからエピクテトスの主要な(と俺が思う)言説を転載したもの。
「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、一言でいえば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれの所為(せい)ではない一切のものである。われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されこともない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。」
「人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである」
要するに、エピクテトスは
物事は捉えようでなんとでも考えられる。大事なのは自分の心。自分の心の及ばないものにあれこれ囚われるから混乱する。心そのものは自由なのに。
と言っているように思うなあ。
さて、自由とは何か、という問題は善、徳、更には正義の問題とも関係している。今日のところは以上をメモした状態で止めておこう。そのうち発酵するだろう。
最後にオチ。以下に、上で引いた茨木のり子の詩の全文をhttp://www5.ocn.ne.jp/~ngekijou/ibaraki.htmlから転載させてもらう。いい詩だねえ。
自分の感受性くらい
茨木のりこ
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
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コメント
ブログでははじめまして、です。
痛烈な詩ですね。
でも心に響きました。
心が渇くのを他のこと・もの・ひとのせいにしがちですが、
自分を省みよ、と教えられました。
投稿: ペリエ | 2007年10月28日 (日) 午後 10時26分
私も全く同様です。全てはアバウトミーのお陰です。
投稿: 土曜日 | 2007年10月29日 (月) 午前 04時03分
こんばんは。コメント&リンクありがとうございました。
私もリンク、いただきました。
茨木のり子さんの詩、私も衝撃的でした。
言葉というものは30年、40年たって熟成されると茨木さんは述べてらっしゃいました。孫ができるころには、いい言葉がでてくるよう精進したいと思いました。
エピクテトスの言葉、仏教の唯識論と重なりました。古今東西、言葉は違えども、同じことを言っているのですね。これからも哲学・短歌そして株についてのお話、楽しみにしています。
投稿: 管理人ミチオカ | 2007年10月29日 (月) 午後 09時19分
素敵なコメント、ありがとうございます。お陰さまで「秋日和拙き言葉積み重ね」と駄句を即吟できました。
投稿: 土曜日 | 2007年10月30日 (火) 午前 04時39分
エピクテトスは本当に印象的な哲学者でしたね。
初めてエピクテトスの本を読んだときには少し肩の力が抜けたような感じでした。
投稿: 風は風に | 2008年11月19日 (水) 午前 12時58分
ブログ動画拝見。抜くのはいいことです。やりすぎはよくないですが。
投稿: 土曜日 | 2008年11月19日 (水) 午前 03時33分