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2007年11月

2007年11月30日 (金)

月曜の東京市場は急騰、16千円台回復か

Photo_2 現在、シカゴの日経平均先物は15890円。今夜のNY市場(23:30開場予定)は大幅続伸の見通し。理由は、「アラブに資金を入れさせて、金融機関に住宅ローン利上げを我慢させる。なかなかの作戦だぞ、これは。と俺は思うのだが」である。

これでサブプライム問題は解決したと言い出す連中がまた出てくるぞ。売りポジ全部を投げられなかった俺も根性不足だが。 現在のポジションは売り14枚買い24である。

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観音のおはすお堂へ里紅葉

Photo 観音のおはすお堂へ里紅葉

建仁寺見物に行く前日は京田辺に泊まった(ウェルサンピア京都。リーズナブルな料金でお勧め。ネット接続フリーのパソコンが一台ロビーに置いてある)。部屋に近隣紹介の小冊子があったので見てみると十一面観音(国宝!)がある観音寺というお寺が近くにある。明日の京都は建仁寺だけが目的だから時間的余裕はある、是非観音様を拝んで行こうと思い立ち翌朝拝観に行った。

行ってみると鄙びたお寺だ。拝観券売り場もなく庫裏を訪ねて案内を乞う仕組みになっているようだ。「おはようございます」と声をかけたら壮年の住職が出てこられた。(今ネットで検索したら、元の名称は普賢寺である、天平時代に五重塔創建の記録と心礎があり隆盛を見たようであるが火災に何度も遭い寺宝として国宝指定の十一面観音のみが残る、観音様の寺として知られ現在の寺銘となったと推察されると紹介しているHPがあった)。

住職が懇切にお寺の由来その他案内して下さり(観音様は現世利益の仏なんだって)、観音様も近くに寄ってじっくり拝観できた(こんなお傍で拝めるお寺はなかなか無いと思う)。画像をどこかで見かけたのでリンクしようと思ったが、残念ながら見当たらない。ふっくらとした優美な頬が印象的だった。「写真、撮っていいですか」と訊いたら(少し間があって)「いいですよ、一枚だけなら」とのことだったが遠慮した。後で同行者が「写真料金請求されただろう」と言う。
拝観料はどうするんだろう、お心づけでいいのかなあと思っていたら案内の最後に「お一人400円です」と爽やかに請求して頂いた。

十一面観音、向源寺(渡岸寺)のは拝んだ記憶があるからこれで二件目だ。死ぬまでに少なくとも国宝の観音様は全部見ておきたいなあと思いつつお寺を後にした。

ところで、sohyaさんから「京田辺市に来られたのですか。私の住まいは木津川を挟んだ対岸の城陽市にあります」とお便りを頂戴した。ご無沙汰しています。京田辺にはまた行きます。いいところですね。

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2007年11月29日 (木)

双龍も愛す紅葉や建仁寺@建仁寺(4)

Photo 双龍も愛す紅葉や建仁寺

建仁寺の法堂に、平成14年に創建800年を記念して描かれたという「双龍図」である。この記事を書くためにネット検索して「双龍図」の写真をいくつか見て気づいたのだが、俺のこの写真、出来特に構図がよくない。双龍だけを写しているのがよくない。写真も俳句と同様に切れと取り合わせである。双龍だけではなく、お堂の柱とか仏様を取り合わせしなくっちゃ臨場感が伝わらぬではないか。
ということで反省の記念祈念の一枚である。そこで、もう一枚と一句。

Photo_2 手向けする水子地蔵や京は冬

四条河原町で電車を降りて建仁寺に向かう途中にあった水子地蔵。お水をかけてお参りした。京都には忘れてならない記憶がある。そのための一句だ。

これで建仁寺は終了。明日の記事は十一面観音様である。

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2007年11月28日 (水)

信長の冬眠の庭建仁寺@建仁寺(3)

Photo_4 信長の冬眠の庭建仁寺

方丈(慶長四年(1599)恵瓊が安芸の安国寺から移建したもの)から眺めた庭「大雄苑」である。Photo_5 この写真の右側に織田有楽斎(信長の弟。有楽町の地名の起源になったという説あり)が建立した信長の供養塔がある(右の写真)。
若い人が方丈の濡れ縁に座り込んでじっと庭を眺めているのが印象的だった。俺は写真撮影に頭が行っていて(連れもあったし)じっくり鑑賞できなかったなア。
そこで、もう一枚と一句。

Photo_6 ケータイで写す雷神京の秋

風神雷神図屏風(琳派を代表する絵師 俵屋宗達の至高の代表作)である。国宝だ。といってもこれはレプリカ。繊細なデジタル画像を大判プリンターにて出力した後、伝統工芸士の方が金箔を貼ったもので、本物は、京都国立博物館に委託保管されていますので、なかなか目にする機会はありませんとのことだ。
これもじっくり鑑賞しなかったなあと今、反省。まだまだ修行が足らぬワ。

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2007年11月27日 (火)

京に来し老いの身空に照紅葉@建仁寺(2)

Photo 京に来し老いの身空に照紅葉

俳句はいまいち。紅葉の写真(照紅葉がうまく撮れたと自画自賛)を出すために無理筋でひねった感あり。
そこで、もう一枚と一句。

Photo_2 山梔子の実や祇園行き建仁寺

建仁寺を散策していたら写真の実が目にとまった。Photo_3 この実はいったい何だろうと思い、お茶の案内をされていた女性(右の写真:肖像権侵害ゴメン)に訊いたら、わからないようだ。横にいらした年配の女性(お茶の先生?)が「あれはくちなしの実です」と教えてくれた。
そうか、俺が「くちなしや世間の義理も煩悩も」と詠んだくちなしの花の実なのかと得心が行った。年配の女性は若い女性に「それぐらい知っていないと駄目ですよ」と付言注意していた。お茶の先生は何かにつけ熱心である。

帰宅してから「花の歳時記 秋」の「梔子の実」の項で確認した。そこには「実は熟してくると赤黄色に変色するが、熟しきっても先端の口を開かないために「くちなし」の名がある」とあった。また、実にある突起部分をくちばしに見立てた「クチハシ」からの変化、という説もあるそうだ。 これで花と実とをセットで覚えることができる。俺の人生、ちょっぴり豊かになった気分である。                  

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2007年11月26日 (月)

茶が咲いてこの人生の隠し味@建仁寺(1)

Photo 茶が咲いてこの人生の隠し味

三週間程前だったろうか、日経の記事で京都建仁寺(日本で最初の禅寺)の茶の花を取り上げていた。そうか、茶の花かあ、これは見ものだぞ、今度の関西行きでは建仁寺に是非立ち寄って写真と俳句を得ようと意気込んで京都へ行った。Photo_2
ところが、茶の花は既に終わりかけていた。どうも11月初旬が盛りだったようである。それでも法堂(右の写真)の周りの生垣を探索して得たのがこの写真である。

「茶は養生の仙薬なり…」ではじまる『喫茶養生記』を著し、お茶を日本に広めた人、栄西禅師が開いたのが建仁寺。そういうご縁もあって建仁寺に茶が植えられているのだろう。ご縁があれば人生の隠し味を求めて盛りの頃にまた訪ねたい。

ところで、茶の花にはじーんと来る佳句があるので引いておく。

 茶の花や些事も大事も人まかせ    飯島晴子
 茶の花に出て老人のひとりごと     黛 執
 茶の花や臍に艶ある観世音      神戸周子
 茶が咲いて肩のほとりの日暮かな   草間時彦 

ついでにもう一枚と一句。
Photo_3 雑踏を歩くうなじや京紅葉

建仁寺は祇園の町中にある。そして、十一月三連休に京都へ車を乗り入れるのは狂気の沙汰。そこで、前日泊した田辺の駅前スーパー駐車場に車を置いて、近鉄・京阪を乗り継いで四条河原町へ、そこから祇園の町並みを見物しながら建仁寺へ行った。その途中、四条通りの向こう側を舞妓さん二人が歩いているのを発見してスナップショットしたのがこの写真だ。後姿のうなじを捉えた写真もあるが残念ながらピンボケなのでこの写真で代替する。

ところで田辺の駅前スーパーの駐車場は駐車料金フリーであった(しぶちん俺でも覚悟していたのに)。平和堂さん、ありがとう。ご縁があれば今度は買い物するからね。

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2007年11月25日 (日)

ふるさとは城のある町冬紅葉

Photo ふるさとは城のある町冬紅葉

姫路城(白鷺城)である。手前のレンガ造りの建物は市立美術館。入ったことないけれど、明治時代の建物(旧陸軍第10師団の兵器庫・被服庫:明治38年建築)を保存活用したものだそうだ。Photo_2 お城のこのあたりは昔の姫路師団の駐屯地で、今は自衛隊、競馬場、美術館等として利用されている。
ところで俺の出身地は姫路の近くの加古川だから、本句は厳格に考えると偽装表示だ。しかし、この週末に好天の姫路の町を走っていて、これは写真タイムだと思いつき大枚500円を出して駐車場に止めた上での写真であるから許されよ。

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2007年11月21日 (水)

稲尾逝き野武士去り行く小春かな

Photo 稲尾逝き野武士去り行く小春かな

プロ野球西鉄(現西武)の元エース、稲尾和久氏が13日未明、惜しまれつつ70歳で死去した。西鉄が日本シリーズで巨人を連覇したのはいつだったかなあと検索すると、ウィキペディアにシリーズ優勝チーム及びMVP一覧表があった。1956年~1958年だった。巨人V9の前の時代だが、田舎の(九州の皆さん、失礼)チームが巨人を三年連続で破ったのだからびっくりした。大下、中西、豊田、稲尾そして仰木などそうそうたるメンバー、野武士チームだった。小学校の教室に先生が当時まだ珍しかったトランジスタラジオを持ち込んでシリーズ中継を聞かせてくれたことを覚えている。

そしてあの鉄腕稲尾が70歳脳腫瘍で逝去(新聞の死亡記事は年齢と死因を必ずチェックしている)。男は70前半が鬼門だなあ、あと十年余やないかと思う俺である。

ところで写真は稲尾逝去を伝える日経だが「モーレツ時代の英雄」というのは違和感がある。西鉄黄金時代(1956年~1958年)はCM「オー・モーレツ」が放映された1969年とはだいぶ隔たりがあるし、まだ貧しさが残る1950年代だ。60年安保が時代の分水嶺となったことを思うと、稲尾を「モーレツ時代の英雄」と呼ぶのは間違いだろう。リアルタイムであの時代を生きたことがない記者が書いたのだろう。歴史はこうして歪曲されるのである。

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2007年11月20日 (火)

あなたがあなたである理由を述べよ

Photo_2 ガキの頃から不思議だった。「なんで俺は俺なんやろ?」「なんでこの俺に生まれて来たんやろ?」と。この疑問を数年前にある女性に話したら「変な子やったんやねえ」と鼻で笑われてしまった。
思うに、こういう疑問を持つ人と持たない人とに世の中は二分されるのだろう。疑問を持つ人の典型が偏屈哲学者永井均。彼はこの疑問を「開闢の奇跡」という大げさなネーミングで呼んでいる。

そこで、アバウトミーに例によって質問してみた「あなたがあなたである理由を述べよ」。皆さんとのお喋りで啓発されてたどりついた俺の答えは「あなたがいるからわたしがいる」である。

私たちは三つの世界→「事実世界」「記号世界」「価値世界」を生きている。そして、「私」とか「あなた」(代名詞)は記号世界の存在。同様に、心もその大部分が記号世界における現象(心は社会的現象)。だから、あなた(即ちあなたの心)があなた(即ちあなたの身体)である理由は「あなた」(代名詞)が記号であるからであり、「わたし」(代名詞)があるからであるということになる。Photo_3

もっと端的に言うと、「事実世界」と「記号世界」とは地と図の関係なのだ。そして、あなた(即ちあなたの身体)とあなた(即ちあなたの心)とも地と図の関係。地に着目すればそれは身体、図に着目すればそれは心。このことを心身一如というのである。

ああ、俺はデカルトの心身二元論を超えてしもうた。この屁理屈好きめが。

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垣根越え隣の庭へ菊日和

Photo 垣根越え隣の庭へ菊日和

「隣の庭の菊日和」なのか「隣の庭に菊日和」なのか「隣の庭へ菊日和」なのか迷った。おすそ分けという気持ちを滲ませるのがいいかなあと思い、「へ」としたがよくわからない。とにかくもまあ菊日和という季語を使えて喜んでいる。

 遠きゆゑ会釈を深く菊日和          鷹羽狩行
 たましひのしづかにうつる菊見かな     飯田蛇笏
 わがいのち菊にむかひてしづかなる    水原秋櫻子
 有る程の菊抛げ入れよ棺の中        夏目漱石

名句ばかりである(鷹羽狩行の句は有名ではない)。こうした句を知っていて菊を見るのと知らないのとは大きく違う(と思う)。俳句は「眼の散歩」機能を充実させてくれるのである。

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2007年11月19日 (月)

山茶花や捨てにし恋は胸の底

Photo 山茶花や捨てにし恋は胸の底

白山茶花の八重咲きの写真だ。朝日を浴びて逆光の姿を捉えたものだが、ちょっとあざといな。テクニック未熟者はあざとさでカバーせむとするものか。
そこで、山茶花の例句をいくつか。

 山茶花やいくさに敗れたる国の      日野草城
 山茶花は咲く花よりも散つてゐる      細見綾子
 散りさうなさざんくわくづし遠き恋      庄原明美
 さざん花や時に女の眸がぬれて      増尾信枝

山茶花は上の細見綾子の句が示すように咲くよりも散っているのに風情を感じる。人間、散り際が肝心などと凡俗な感想が口をついて出るのだが、そう簡単に散ってはならぬとも思うのである。  

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2007年11月18日 (日)

フェルメールそしてヤン・ステーン

フェルメールを観に行こうと思い立った理由は、彼の現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの33~36点と少ないから多分、実物に接するのは俺の生涯で今回が最初で最後になるだろうからと思ったからだ。(でも、もう一度ヨーロッパに行きたいなあ、相場に大勝ちしたい)。
同じように考えた人が多いのだろう、フェルメールの絵の前は矢張り人だかり、前列は歩きながら鑑賞、じっくり立ち止まって鑑賞したい人は後列という具合に交通整理されていた(しようがないよねえ)。


Photo_5
このフェルメールが鑑賞コースの一番最後に設定されていて、そこにたどりつく前にオランダ風俗画の作品が展示されている。その中で印象に残ったのがこの絵、ヤン・ステーン「大人が歌えば子供が笛吹く(陽気な家族)」である。帰宅してから「ヤン・ステーンって何者やねん」とネット検索してサルヴァスタイル美術館に出会って絵を転載させてもらった。このサイト、個人の方が運営されているようだが美術史の勉強になる。そして面白いのはその芸術論。「芸術というものは、論ずれば論ずるほど陳腐に映るもの」だからこそ「老若男女問わず、誰でも、もっと手軽に触れられる場所を」と考えてこのサイトを創設されたとのことだ。

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短日や食卓高き美術館

Photo 短日や食卓高き美術館

新国立美術館フェルメール「牛乳を注ぐ女」を観に行って来た。Photo_2 今までの美術館と違ってビデオによるビジュアルな説明があったりして、この絵の遠近法テクニック、構図の工夫などがよくわかった。案内ヘッドフォンセット500円もあったが(当然のことながら)しぶちん俺は利用しなかった。

写真は美術館吹き抜けロビーにあるポールボキューズだ。さすがは美術館、凄いオブジェがあるなあと感心しつつ撮影した。ちなみにランチ2500円という高き食卓なのでフェルメール鑑賞後、東京ミッドタウン前のラーメン屋で(これもしぶちん俺は)昼食にした。

Photo_3 秋深し物見遊山の千代田線

東京ミッドタウンをひと回りして乃木坂から千代田線で帰宅。新国立美術館~東京ミッドタウンは巨大遊園地東京の周遊及びデートコースのひとつだろうなあ。
千代田線はかつての通勤電車なのでちょっぴり感慨深い深秋であった。
写真は新国立美術館の玄関。おばさんの肖像権侵害ゴメンナサイ。

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2007年11月17日 (土)

所有するなにものもなく愛恋の憶ひは持たず過ぎゆくは秋

Photo_2 所有するなにものもなく愛恋の憶ひは持たず過ぎゆくは秋

もう「歌の泉は涸れて」しまったけれど、せっせせっせと日経歌壇に投稿していた時期があった。この歌はそんな時期の中でとりわけ思い出深い歌だ。岡井隆(選者)がその週の先頭に選んでくれたからだ。「二重否定が清々しい」とのコメントを今でも覚えている。

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ひとひらの風のごとくに紅葉逝く

Photo ひとひらの風のごとくに紅葉逝く

木の葉の写真は光の裏側から撮れと何かで読んだ記憶がある。
この写真は、朝日を斜めから浴びた桜紅葉だ。桜は一番先に紅葉し、今はもう大方が散っている。そこで、枯葉ではなく紅葉のままに健やかに散るのが俺の願望だ。だから、毎日プールに通い有酸素運動を怠らない。まあ全ては天命だけれど。

 紅葉かつ散るみな生きてゐたりけり    小川双々子
 洒落ていへば紅葉かつ散る齢にて     川崎展宏

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2007年11月16日 (金)

わが心雪になれよと富士真白

Photo わが心雪になれよと富士真白

わが街、多摩ニュータウンからの富士。冬の透明な空気になればこのように白き富士が丹沢越しに遠望できるのだ(送電線が邪魔!)。
本句はまさにこの景に接したときに浮かんだ。いつか俺の身体も心も溶けて水になってどこかに流れて行くのだろう。

ちなみに「富士真白」という措辞は「勇気こそ地の塩なれや梅真白」中村草田男から頂戴した。草田男の句を確認するために「富士真白」で、このブログを検索したら「紅梅の向かうは遠く冨士真白」なる駄句をつくっていたわ。人間なかなか進歩しないものだ。
そこで口直しに一茶「心から信濃の雪に降られけり」。

ところでこの写真、朝焼けで少しピンクがかっているのに今気づいた。毎朝の吟行(7時前後)時の写真である証拠だ。

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2007年11月15日 (木)

人間は結局ひとり鳥渡る

Photo 人間は結局ひとり鳥渡る

「鳥渡る」は秋の季語で、渡り鳥が秋に日本列島にやってくることを言う。この季語の代表的な味わいの句を挙げてみる。

 渡り鳥みるみるわれの小さくなり   上田五千石
 鳥渡る終生ひとにつかはれむ     安住 敦

「まぐはひの女めつぶる渡り鳥」加藤楸邨とか「鳥わたるこきこきこきと罐切れば」秋元不死男とかの面白い味わいの句もある。

これに対して「鳥帰る」は「鳥渡る」とは逆に、春になって渡り鳥が日本列島から北へ帰ることを言う。「鳥帰るいづこの空もさびしからむに」安住敦。

そこで俺の本句。陳腐だなあ。では、写真。これも渡り鳥が写っていない。この程度の技量でエラソーに「人間は結局ひとり」などと阿呆め。顔を洗って出直して来い。

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2007年11月14日 (水)

青臭き書生哲学柿熟るゝ

Photo 青臭き書生哲学柿熟るゝ

いつまでも哲学したい柿熟るゝ。さっきもアバウトミーに「究極の質問。愛とは何か?」などと「あほくさき」質問をしてしもたやないか。
一方で、NYの相場もちらちらと見ているのだから(自分で言うのもなんやけど)オモロイ奴やなあ。
NYの今日はウォルマートの上方修正決算を囃してる。昨夜の欧州の弱気を見て売りに勝負と出たのだけれど、相場は大抵予測の反対側に動くなあ。最後に川柳をひとつ。

大阪や浪漫に溺れ銭も欲し

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2007年11月13日 (火)

冬桜世間気ままに渡り来し

Photo_2 冬桜世間気ままに渡り来し

実は(何を隠そう)日帰り温泉ファンである。この日曜も湯河原こごめの湯に行ってきた。朝早く家を出て葉山のパン屋「ブレドール」で美味しいパンの食べ放題朝食、湘南を走って湯河原へというのが定番のコースだ。

そのこごめの湯の傍に冬桜が咲いているのを見つけ、これは写真と句になると思い湯の中で句をひねる。「それぞれにそれぞれの顔冬桜」「冬桜野人の自負を幾許か」などが浮かんだが結局、本句となった。私には私の幸よ冬桜。

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2007年11月12日 (月)

黙したるちあきなおみや時雨降る

Photo 黙したるちあきなおみや時雨降る

先日、俳句王国だったかNHK俳句だったか、「ちあきなおみ」を中七に織り込んだ句を見て、よし俺もと考えたのが本句である。Photo_2
彼女のデビュー時のヒット作「四つのお願い」はいまいちだが、あの「喝采」はスケールの大きな曲だった。この曲のヒット時が、俺が独身で元住吉に住んでいた頃(30年以上前)だったことを未だに覚えているくらいインパクトがあった。日本の歌謡曲も酒・涙・溜息に堕さないこのような曲を生み出したかと喝采したものである。

ところで、ちあきなおみは1992年に夫の郷鍈治と死別後一切の芸能活動を休止している。「黄昏のビギン」(最近になってBSのちあきなおみ特集番組でこの曲を知って今ではお気に入り)を聴くたびに彼女の沈黙の意味を思っている。

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2007年11月11日 (日)

基軸通貨の多極化?

Photo_4 ドル帝国の崩壊序曲?を書いた後で例の田中ニュース最新号「ドルは歴史的役目を終え る?」を読んだ。ブレトンウッズ体制から説き起こして基軸通貨の今後を占っており、今までの田中ニュースの中では抜群の面白さであった。そこで、そのエッセンス、まずは基軸通貨国のジレンマの部分を転載する。

基軸通貨を持つ国は、世界に通貨を流通させる必要があり、経常収支を赤字にせざるを得ないが、赤字を増やすと通貨に対する信用が落ちて相場が下がり、インフレになるという難しさがある。この難問の存在は、1960年にロバート・トリフィンという米経済学者によって発表され「トリフィンのジレンマ」と呼ばれている。

ふーん、「トリフィンのジレンマ」かあ。なるほど。これは後ほどネット検索して研究してみよう。そして、田中ニュースは基軸通貨国のジレンマをめぐって英、米の対立が根底にあるという。

二度の大戦で覇権を失った後、現在まで続くイギリスの国家戦略は、アメリカを覇権国に仕立て、ドル本位制を採らせ、米英中心の世界体制が経済的・政治的に維持され、イギリスがその黒幕であり続けることである。

 一方アメリカは、イギリスの策略に席巻されつつも、機会を見つけては、自国のもともとの国家戦略の方向に事態を転換させようとした。イギリスの国家戦略は「米英が世界を支配し、英が米を操作する」という米英中心主義なのに対し、アメリカ本来の国家戦略は多極主義で、各大陸に覇権国が存在し、覇権国どうしの談合で世界を運営するというものである。

ほほう、かなり陰謀説めいてはいるが一概に否定することはできない見方ではある。そして、田中ニュースはドルの今後を次のように占って締めくくっている。

 ドルに関しては、通貨多極化の一環として、アメリカとカナダ、メキシコの北米3カ国で共通通貨「アメロ」(Amero、「アメリカ」と「ユーロ」からの造語)を作り、アメリカの通貨はアメロに移行してドルは廃止されるという説もある。(関連記事

 最近、メキシコのフォックス元大統領がCNNのインタビューで、ブッシュ大統領が自由貿易圏構想の一環として、メキシコ、カナダとの共通通貨創設について了承したと述べ、関係者を驚かせた。ドルの信用不安がひどくなり、世界の通貨体制が多極化し、アメロの創設とドルの終焉につながる展開が、実際にありえる話になってきた。(関連記事

 通貨が多極化すれば、世界経済を回すための「消費大国」の役割も多極化され、アメリカの負担は軽減され、再び製造業を発展させられる。アメリカでは1960年代以来、自国の輸入を増やすため、自国の製造業を自滅させる策が繰り返されてきたが、その必要がなくなる日は遠くない。

 この記事の配信直前に、ブラジル出身の世界的に有名なファッションモデルであるジゼル・ブンチェンが、今後はドルでのギャラ受け取りを拒否し、ユーロでの支払いを好むとの宣言を発表したというニュースが入ってきた。すでに世界の流行の最先端では「ドルの終焉」がファッショナブルな話になっている。(関連記事

以上が田中ニュースのエッセンスだ。どこまでが真実か判断する見識は俺には無いが頭の片隅に入れておいて相場を張るのに損はない。

グローバル化とは資本の無国籍化と国民経済の相互依存進展であり、基軸通貨国になることと資本の無国籍化との間に矛盾があるということは(トリフィンのジレンマ)少なくとも正しいだろう。ブッシュ政権はドル安に手を打たず利下げを継続するだろうか?

※写真はモデルのジゼル・ブンチェン。勉強になりました。

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ドル帝国の崩壊序曲?

昨夜早く寝たせいか、それとも月曜の相場が気になるのか、こんな時間に目覚めてしまった。
さて、その相場だがアメリカ政府・FRBは今、いったい何を考えているのだろう。先月の利下げ時にここまでのドル安を予想していたのだろうか。まあ、想定外のドル安ということはないだろう。ドル/円が動いたといっても精々115円が110円になった程度なのだから、こんなことで政府がうろたえているようでは始まらない。
とはいえ、強いドルはアメリカ帝国主義の強さの源泉。ドルが売り立てられて資金がアメリカから本格的に逃げ出し始めたら大変だ。そんなことを考えて、別宅に「アメリカは追加利下げをできないかもしれない」と書いた。市場が追加利下げなしと織り込み始めているのなら、ドルもNYダウも日経平均もまだ暫くは下げ止まらないだろう。この点が月曜の相場を見る上でのポイントのひとつと思っている。

ここでポールソン財務省長官の顔をじっくりと眺めておこう。米財務長官、世界の準備通貨としてのドルを擁護  Reutersから勝手拝借したものである。
Photo_2

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従順な大和の国よ神の留守

Photo 従順な大和の国よ神の留守

先日の俳句王国の兼題が「神の留守」だった。この季語、なかなか面白いと思ってひねったのが本句。例によって、物の写生はできず観念から抽出した句だ。ちょっと理屈も目に付くなあ。しかしまあ、俳味はあって悪くないと自分に大甘である。
写真は横浜ランドマークタワーから見下ろした横浜スタジアム。こんな句につけるとは思わず、とりあえず撮っておいた画材である。

参考までに「神の国」の解説をわたしの俳句歳時記から引いておく。

陰暦10月は神無月と呼ばれるように、日本中の神々が出雲へ集まり、談合をすると言われる。したがって、出雲以外の国々の神社には神がいなくなる。神の旅とは、出雲へ向けて神々が旅立つことを擬人化したものである。なお、談合の内容は縁結びについてだと言われている。神無月の会合に出発する神を送る行事を「神送り」、が出雲の集会から帰る日の行事を「神迎え」という。出雲では神々が集まる月なので「神在月」と呼ばれる。

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2007年11月10日 (土)

月曜日の相場は正念場

CME日経15255。Photo_3 昨日の夕場で数枚投げておいてまだ少しは救われた。現在、買い持ち17売り持ち14。売りにドテン転換するぞ。証拠金不足で退場してたまるか。
NY大続落→日経平均15千円割れへ?:イザ!

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平凡な真実がある神無月

Photo 平凡な真実がある神無月

この写真には「裸木に赤き実揺れて冬に入る」を付けるつもりがあったが、この句はひねりがなく散文的で俳味に欠けると考えて止めた(でも俺にしてみれば珍しく写生句)。
そこで本句「平凡な真実」にした。数日前の新聞でたまたまこの言葉に出会って、これは句になると後は歳時記をめくって「神無月」を持ち出しただけの句だ。

この歳になるまで花水木の紅葉にも赤い実にも気づかなかった。いのちの営みは平凡な真実であることに気づくまでほぼ六十年かかったのである。

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2007年11月 9日 (金)

「隣人」の権利は社会的共通資本

昨日の日経夕刊「ひとスクランブル」の全統一労組書記長鳥井一平さんという人の記事が載っていた。「増え続ける外国人研修生 「隣人」の権利求め奔走 全国集会開き、政府とも討論」というような記事だ。そのうちで印象的な言葉を記録しておく。

「外国人労働者がいなくなったら車一台走らなくなる。居酒屋の裏で誰が食べ物を作っているのか」。日本での外国人登録者数は二百万人を超え、実質的にはすでに「移民社会」となっている。だが、外国人を一緒に社会をつくる人たちとみる日本人はまだ少ない。
「労働者の権利が国籍や社会的身分によって違ってしまっていいのか。研修生・実習生問題は日本社会の人権感覚と民主主義の水準を問う大きな問題だ」

この研修生・実習生問題、テレビで見たことがあるがひどい低賃金労働のケースが中には多々ありそうだ。同一労働同一賃金は社会の公正の原則。リベラルとか保守とかいう問題以前にきちんと手当てすべきだろう。そうしないと、いずれ、外国人労働者も来てくれない国に成り下がってしまう。守ろう、日本の共通資本→安全・清潔そして(比較的)自由かつ公正な社会を。

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黄落や老いてカメラの眼の散歩

Photo 黄落や老いてカメラの眼の散歩

これまでに買った家電製品の中で最もパフォーマンスがいいのはHDDビデオとデジカメだ。ビデオもカメラも毎日愛用。デジタルライフの便利さを実感している。

ところで「黄落」。この写真はいまいちだけれど、いつか一面に散り敷く黄色の枯葉の絨毯(なんと陳腐な比喩)を撮ってみたい。「黄落や或る悲しみの受話器置く」平畑静塔。
生命は地に落ちてまた甦る。そして俺の生は一回こっきりなのである。

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2007年11月 8日 (木)

愛されしこともありけり薄紅葉

Photo 愛されしこともありけり薄紅葉

この句は、「愛されることのみ覚え薄紅葉」鞠絵由布子の本歌取りのつもりなんだけど、客観的にはパロディかもしれぬ。思うに、人間なんかつまらぬもので愛することより愛される方が心地よいのだ。他方、心から何かを愛したいという気持ちも捨てきれない。そのあたりの心理が季語「薄紅葉」に凝縮されていると思う(俺の句ではなくて鞠絵由布子の句の鑑賞)。

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2007年11月 7日 (水)

正義=個人的正義(仁義)+集団的正義

「正義ってなんだろう?」という質問に対して「義を尊ぶことでは?」と答えてくれた方がいらして何回かのラリーと俺の中での発酵を経て、タイトルの方程式に到達した。

すなわち、正義の根本には、まず、個人的正義が無ければならない。そして、個人的正義とは仁義(人には仁をもって接し、義を守って生きる)である。そして、その上での集団的正義の問題である。
そこで集団的正義だが、これについてはロールズの正義論をヒントにした俺の定義がある。すなわち、「正義とは:基本的自由を保障した上で、社会の富を公正に配分すること」である。実は、この定義は経済的正義に偏しているのが気になっていた。正義を個人的正義と集団的正義に分割して、ロールズの正義論を集団的正義に限定することによりバランスのとれた正義論になったと自画自賛である。

正義とは、個人として仁義を守って生きてその上で集団的正義を実現することである。そして、集団的正義は自由と平等(公正?)の問題とリンクする問題であって、他者の自由を尊重した上で世の中の富(物質的精神的)を公正に配分することである。
だから、仁義なき集団的正義、自由・平等・公正を無視する集団的正義は凶器となる。オウムを想起し、国家主義的正義(大日本帝国、アメリカ帝国主義のイラク侵略)を思えばそれは明らかであろう。

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先物の鉄火場暮らしそぞろ寒

Photo 先物の鉄火場暮らしそぞろ寒

俺のトレード環境である。相場を見ているときは常にテレビが点いている。寄り付きの時はリアルでオープニングベルを見ているが、後はビデオである。音楽が多いなあ。この写真のときはたまたま俳句王国のビデオを見ていた。片山由美子主宰のときのようだ。

相場と音楽と俳句の暮らし。そぞろ寒いがシアワセなんだろう、多分。

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2007年11月 6日 (火)

トヨタ暴露本の宣伝

Photo_2 内容を見ていない本を宣伝するのは気が引けるが、相手が天下のトヨタだからいいだろう。livedoor ニュース - 単行本『トヨタの闇』発売 新聞・雑誌は書評すら載せられないから一部を転載する。

2007年の生産台数世界一が確実となったトヨタ。年間1千億円超と、全上場企業でダントツの広告宣伝費の萎縮効果は抜群。本屋には「おべんちゃら本」が並び、雑誌は広告と区別がつかない記事を書いてスポンサーに媚を売る。しかしその実態は、欠陥車をどこよりも多く作り、どこよりも多くリコールされる不良品メーカーである。

 その労働現場は「自動車絶望工場」の時代を引き継ぎ、社員が工場内で若くして過労死しても労災すら認められず、正当な労組活動すら制限されるほど“思想統制”は行き届く。既存メディアがタブー視してきた、日本企業・日本社会の象徴としてのトヨタの本当の姿を伝える。

トヨタの株で一二度儲けたように思うけど、ホンダの方が夢がありそうで好きだ。俺みたいな怠け者ではトヨタでもホンダでも工場労働など務まりそうにないけれど。

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小沢一郎を読み解くキーワード

今日からNYは冬時間。従ってNY市場は日本時間午前6時で引けとなる。夏時間のときはこれより1時間早く午前5時で終了するから、そこから記事をまとめて別宅にアップ、6時前にはPCを一旦手仕舞い朝食というリズムができていたのだが、これが1時間ずれるとリズムが壊れてしまう。6時のNY終了を見て記事を書く訳にはいかないのだ。
そして今日のこの時間は特に重要。というのも昨日の下げで売り持ちを返済できて、いくらなんでもNYの今夜は上げるだろうという思い込みで勝負しているからだ。現在、NYダウ▼101ドル。引けにかけてはいつものパターンで上げるだろうと思っている信じている。あと1時間ある。ああ、含み損よ(金額は恐ろしくて書けない)。Photo

それはさておき、小沢辞任騒動。池田信夫ブログに簡潔なまとめがあったので記録、リンクしておく。

自民党の打倒を唱えながら、くりかえし保保連立を画策する小沢氏の矛盾した行動の背景には、自民党が分裂しない限り安定した二大政党はできないという信念がある。それはそれなりに筋の通った政治理念なのだが、彼はそれをいつも側近で固めて裏取引で合従連衡を進める派閥的な手法で実現しようとし、その独善的な体質が反発を招いて、失敗を繰り返してきた。

「派閥的な手法」という表現に小沢贔屓の俺は異論があるが、「自民党が分裂しない限り安定した二大政党はできないという信念」は的を得ている。国家主義党vs個人主義党という形で小沢氏の信念が実現することを俺は強く望む。頑張れ踏ん張れ小沢一郎!

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菊の香や忘れてならぬ愛がある

L 菊の香や忘れてならぬ愛がある

扇山登山で所見。一行中に詳しい方がいらして名前を教えてくれたけど、しっかり認識記憶しなかったので「野菊」で検索してリュウノウギク(竜脳菊)と判明した。
葉をむしってくれて匂いをかがせてくれた。菊の匂いは花ではなく葉にあるのだとわかった次第。かぐわしく、かつ、野生の香りがした。芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏達」の香りもこんなのではなかったろうか。

五感のうち嗅覚は最も原初的な感覚ではなかろうか。見えなくとも聞こえなくとも、匂いは食物と敵の在り処を教えてくれるのだから。

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2007年11月 5日 (月)

山道に教はるその名高野箒

Photo 山道に教はるその名高野箒

扇山登山の先達の方が教えてくれた花だ。ネット検索したら「明るい二次林、特にアカマツ林に生育する。草本のようであるが、落葉低木に分類される」とあった。そういえば周囲はアカマツだったようにも思う。

その昔、和歌山県の高野山には竹、梨、胡桃、桃などの竹木がありませんでした。利潤を得る行為を戒めるという意味で、商品作物の栽培が禁じられていたのです。それで竹箒が作れず、代わりにこの木の枝を束ねて箒を作ったことから「高野箒」の名が付いたといわれています(週刊朝日百科「世界の植物(2)」より)。

というのが名前の由来のようである。世界は多様な生命と記号に満ちている。

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2007年11月 4日 (日)

感情=欲望・喜び・悲しみ+情感

スピノザは感情の基本要素は3つ(欲望・喜び・悲しみ)であるとしている。なるほど、そういうことかとずっと思ってきたが、アバウトミーで(戯れに)「男と女、どちらが強い?」という質問を出したら、「ロマンチック」ということについてこんなコメントがついて愕然とした。

動物として生きるのには不要な感情。
人間として生きるのには余禄として必要な感情。
例えば、サルから進化しかけた人類の祖先が、死んだ仲間に花を手向けた事とか。「もののあわれ」に宿るもの。
夢見る乙女にしてもそれは男性からの主観であると思いますよ。


そうか。欲望・喜び・悲しみの他に人間には「もののあはれ」なるものがあるなあ、とPhoto_6気づ いたのである。 これを何と呼ぶべきか、とりあえずは「共感」と名づけたが、どうもしっくりこない。そうしているうちに今度は、「生き方としての『川の流れのように』とは?」という質問に出会った。
この質問に対し、「本能のおもむくままに」選択肢を選んだら「ケダモノとの差はどんな部分でしょうか?」「侘び寂びと同じですか?」と逆質問を受けたので次のようなコメントをした。

そうです。いや、もっと広く想像力と言うべきかと考え始めました。「あはれ」「をかし」、侘び寂しなど情感を育てるものは、動物になくて人間にのみある想像力のような気がしてきました。

かくして俺がたどりついた言葉が「情感」。すなわち、人間の感情の基本要素は欲望・喜び・悲しみ+情感(おお、俺はスピノザを超えた)。そして、人間が動物には無い情感を持つに至った理由は、人間が記号世界を構築した結果、「いま・ここ」のみならず「昨日・今日・明日」「そこ・ここ・あそこ」に生きるようになり、想像力を得たからである。

生命(動植物)力の基本は「いま・ここ」にしかない。これに対して人間は時間・空間という概念を創造した結果(記号世界の構築→空間・時間という形式は物自体に属するのではなく、現象を認識する際に我々がア・プリオリ(先験的)に用いざるを得ない論理形式)、「いま・ここ」以外をも生きられるようになった(生命力ではなく生命欲とでも呼ぼうか)。

その生命欲の駆動エネルギーが想像力である。春風に触れて秋風に吹かれ桜の美しさに感嘆し枯葉にイブ・モンタンを思う。これが想像力→情感→「もののあはれ」である。かくして人間は事実世界と記号世界更には価値世界という三つの世界を豊かに生きられるのだ。おお、アバウト・ミー。

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文化の日逆光富士を撮影す(扇山)

Photo 文化の日逆光富士を撮影す

恒例の町内会登山に行ってきた。目的地は中央道談合坂から近い(そうな)扇山、中央線鳥沢駅からタクシー\1640で梨の木平まで、そこから登山。天気を心配しつつ富士の眺望を楽しみに汗満開で登山。なんとか落伍せずに登頂して昼飯を食べ終わった頃にようやくラッキー!晴れて富士を遠望できた。Photo_3
逆光気味なので写真に撮れるかどうか、マニュアルモードをいろいろ試してみたが結局、ガイダンスモード逆光で撮れたのが写真。Jtrimでガンマ補正少しかけて実景により近くしたつもりである。

下りは、膝が笑いつつ、(足指の爪を切っておくべきだった)足指を痛めつつ下りて君恋温泉まで。湯に浸かりサービスの蒟蒻と特注の里芋(うまい!新鮮)でビールとお酒。鳥沢駅までタクシーで帰途についた。

登山が成功(減量の成果、現在82キロ)と富士撮影成功、そして里芋のうまさに痺れて調子に乗って山頂写真もつけよう。ここに我あり、標高1,138m。Photo_4

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2007年11月 3日 (土)

秋日和笑顔で来るよ笠智衆

Photo 秋日和笑顔で来るよ笠智衆

秋日和→小津安二郎→笠智衆の連想で成立した句。画像も「東京物語」の連想から、先日の横浜ランドマークタワー吟行で得た横浜からの新宿遠望である。それはともかく、俳句とは季語をめぐる記号世界連想ゲームと最近実感している。Photo_2 本句の場合、秋日和と笠智衆とがつきすぎ(距離が近すぎる)という批判があり得るが。
そして、ここは笠智衆の顔が見たいのでネット検索して見つけた写真を付けておこう。写真中央が小津、後姿は原節子である。

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2007年11月 2日 (金)

いつまでも子供でいたい秋日和

Photo いつまでも子供でいたい秋日和

先日、「秋晴の関東平野富士は不二」をひねった際に歳時記を引いたら「秋晴」の項に「秋日和」とあった。穏やかでチャーミングな季語だなあと感じ、その感覚を暖めていたらアバウトミーで出した質問「大人になりたくない?」と結合して生まれたのが本句である。そういえば「少年に帰る青空初紅葉」という駄句もあるし、俺のこども願望は相当のものであるようだ。

写真は以前の朝吟行でたまたま見かけたバイクグループ。「ひょっとして句?」フォルダーに格納していたらこういうときに役立ってくれるのだ。何事も蓄積が肝要である。

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2007年11月 1日 (木)

世の中をつんとすまして秋の薔薇

Photo 世の中をつんとすまして秋の薔薇

朝吟行、ご近所で見かけた薔薇(多分)。冬薔薇(「ふゆそうび」と読んだりもする)は季語になっているけれど(「冬薔薇や賞与劣りし一詩人」草間時彦)、歳時記を見ると秋薔薇は載っていない。
でも、立派に季語として働くと思う。本句がその証拠だ(と胸を張ろう)。

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