年惜しむ財布の銭を数へつつ
押し詰まってしまった。大晦日になって年惜しむでもないだろうになどと思いつつつまらぬ句である。ほほ、押しつまりながらもつまらぬ句か。大年のつまる一日のつまらぬ句
明日になれば数えで六十。よくぞ生きてきたと、とりあえずは神の贈り物を褒めてやるか。
押し詰まってしまった。大晦日になって年惜しむでもないだろうになどと思いつつつまらぬ句である。ほほ、押しつまりながらもつまらぬ句か。大年のつまる一日のつまらぬ句
明日になれば数えで六十。よくぞ生きてきたと、とりあえずは神の贈り物を褒めてやるか。
今日の日経、年末読書特集の俳句の部(筆者は正木ゆう子)に面白い句が紹介してあったので記録しておく。山本紫黄「瓢箪池」より。
生別も死別もいづれ春の水
言われてみればその通り。そして「春の水」は早春の水かなあ。まだ冷たいけれどどこか春を感じさせる水、いずれ確実に対面する死とは春の水なのである(と思わせてくれる)。
紫黄は「俳壇的には殆ど知られておらず、句集上梓の直後に、その反響も知ることなく急逝した。享年八十六」だそうだ。他にもいくつか紫黄の句が引かれているが、そのうちで感じた句を引こう。
日の丸は余白の旗や春の雪
「君が代」に起つも起たぬも蝌蚪の昼
ネットを検索したら紫黄に興味を持ってらっしゃる方がいらした。「飄々としたユーモアで、境界線にバランスをとって立っているような感じ」と紫黄の句を評している。一日一句を採り上げて記事を書かれているので毎朝の巡回コースに組み入れさせてもらおう。
きっかけは以前に作った質問「偶然と運命の関係や如何?」に偶々コメントがついたこと。そこで、恐竜の滅亡の話やニュートン力学を振り回していたら、質問「自然界に偶然はあるか?」が出来た。「全ては必然だけど、人間が予測できないことを偶然」を一応の俺の回答としていたら「人間がいまこうしているのも、偶然に偶然が重なった結果だと思います」というコメントで揺らぎ発生。
そうか、「自然=必然、偶然は必然の反対概念にすぎない」というのは言いすぎで「自然=偶然、必然は偶然の反対概念にすぎない」と考えるのが自然だなあと思うに至った。理由は、
(1)必然は結果論というより、ものごとを説明するための枠組み。因果関係も同じ(因果関係は自然に内在するものではない)。
(2)私は神様の贈り物。ここに信仰への道がある。俺は歩まないけど、多分。
ということだ。(2)についてはもう少し注釈が必要で、自然の歴史とか俺のこの人生などという一回こっきりのものに必然という色を塗るのは不自然、偶然のカバーがかかっていると思うのが自然ということがある。また、「私は神様の贈り物」というのは以前、バート・ランカスターの映画「終身犯」を観た感想を引きずっている。
そこで、質問「自然、必然、偶然の関係を述べよ。余裕があれば自由意志についてコメントせよ」に至った。アバウトミーを頼りに俺は哲学しているのである。
さて、この話題はカンブリア宮殿を経ていずれは「運命=自然、自由意志の否定(スピノザ)」につながるがそれはまた後日後刻。乞うご期待。
万力公園の小さな池(池というかせせらぎというべきか)に白鳥がいた。白鳥をこんな近くで見たことはあまりなかったなあと思って何枚か撮る。優美な姿を写真に固定できた。
さて、そうすると俳句。これがなかなか出来ない。連想が広がらないのだ。なんとかひねったのが本句で、「白鳥の歌」を手がかりにした聊か(どころか、かなり)作り物めいているなあ。
ところで「白鳥の歌」(白鳥は死の間際に美しい声で鳴くという。シューベルトは歌曲集にこのタイトルをつけた)の由来が気になって検索したらイソップ寓話がその起源だということがわかった。
「ガチョウと白鳥を飼っていた男が、ガチョウのつもりで白鳥を殺して食べようとしました。 白鳥は自分の死をさとると、美しくうたいました。男は誤ちに気づき、白鳥は死をのがれました。」とのことだ。なんの喩え話なのかよくわからないけど。
ともかくもまあ、死ぬまでに美しい声を磨いておけよという教訓なのだろう。さて、俺にとっての白鳥の歌はなんだろうか。
老いるほど素直であれよ真弓の実
二週間ほど前に山梨市の万力公園に吟行した際に出会った真弓である。「晩秋に淡紅に熟し、四つに裂けて橙赤色の種子を見せる」と「花の歳時記 秋」にあるがその通りだ。真弓の名は「昔、この木で弓をつくったことに由来」する。当然に「枝はよくしなう」のである。
※土曜日日記帳をつける際に本句が浮かんだ。初案「むつかしき素直な心真弓の実」よりはまだマシだろう。
しんじつをこめてくれなゐ真弓の実 後藤比奈夫
落日にいのちはじけるまゆみの実 白澤良子
「青空や湖などを背景とした叙景句は構成しやすく」と「花の歳時記 秋」にあるのに、つまらぬ人生訓句しかできなかった。もっと対象を見つめる力を養わねばならぬ。
駄句ついでに(ええい)もう一句一枚。
寒晴やあはれ郷土の大偉人
これは完璧に「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」飯島晴子のもじりである(盗作といわれてもしようがないぐらい)。万力公園にでかい銅像があって、これは写真と句を残さねばと思っただけの句である。東武電鉄グループの創業者根津嘉一郎は山梨市の出身とのことだ。
冬うらら楽な仕事に手を貸して 中野青芽
冬うらら海賊船は壜の中 中村苑子
「冬晴」という季語は「冬日和」「冬うらら」とセットで手元の歳時記は一つの項目としている。「寒晴」はひょっとしたら「冬晴」とは違う項目となるかもしれないが、手元の歳時記には載ってない。
ブット氏の生命を守れなかったムシャラフ政権に対する批判の声も高まり、同国の政情はさらに混迷化しているとの報道だが、事件の背後関係が明らかになることはないだろうなあ。
この事件を受けて現在、ニューヨーク急落中(ドル安、株安)。一方、欧州株、ユーロ高。同じ事件なのに市場の反応は様々である。長い目で見れば、アメリカ一極支配から世界多極化への流れということになるのだろう。
今日の属国相場は当然に下げるだろう。日本は欧州ではないのである。
※写真はブット元首相を狙った自爆テロ現場で、嘆き悲しむ支持者より勝手拝借。
松崎を過ぎて西伊豆を北上。堂ヶ島は面白くないから通過して恋人岬あたりに来たら丁度また好天。恋人たちでごった返す岬の駐車場に車を停めて岬まで歩いた。
富士はどこから眺めてもどんな時も美しいけど、西伊豆から海越しに見る富士は一段と綺麗だ。好天に恵まれた幸運に感謝しての一句一枚である。
そして、俳句も写真も取り合わせ。岬にあったオブジェを利用しての取り合わせの一句一枚だ。円き心は大事だなあとアバウトミーで喧嘩を売っておきながら今、思うのである。
これも別のオブジェを利用しての取り合わせ。愛の形を具象化したなかなかいい彫刻だと思う。
ところで、恋人岬の由来はと思って検索したらウィキペディアにしっかり書かれていた。自治体が観光町おこしのために1983年にネーミングしたようである。恋人が町をおこして冬日和。
最後に、たまたま今日の捻典さんのサイトの句が冬日和の句だったので記録しておく。
ラブとブラ似ているようで冬日和 中原幸子
人生、謙虚に素直に生きれば楽しいのだと思う年の瀬である。
弓ヶ浜の一泊が明けて、さてどのルートで帰ろうかと考えた。天気予報によれば晴れるのは早くて午後、とすると西伊豆を走っても富士は見えないか、だったら、東伊豆でとも考えたが、せっかくここまで来たのだから、西伊豆でと思い、まずは松崎のなまこ壁を見ることにした。
ところが、 こうして西伊豆を北上しているうちに(日頃の心がけのお陰だ)晴れてきて富士にご対面。笠をかぶってはいるが富士を撮影できた。何事も日頃の心がけが肝要である。
右の写真は松崎の明治の商家中瀬邸の玄関にあった水琴壷。耳をあてて水が垂れる典雅な音を楽しむものらしいが、暫く耳をあてても何も聞こえなかった。辛抱が足らないのだ、俺は。
松崎の町は町おこしに俳句を利用しているようだ。町のあちこちに右の写真のように俳句をちりばめていた。
中瀬邸の入館券売り場の女性が商売上手で、長八美術館、岩科学校とセット特別割引入館券を買わされてしまったので、長八美術館から岩科学校を巡る。
明治12年当時、松崎では村内の教育振興熱が高く、校舎新築のための寄付金が集められた。「総建築費二千六百三十円六十六銭。うち寄付金4割余」
という明治の心に思いをはせた。その一方で、この岩科学校以来の伝統を受け継いだ隣の小学校が近年、廃校になったという平成の過疎化の現実に接して少し暗澹たる思いがした。世の中は転変するものだからいつか地方活性化の時代が来るとは思うけれど。
河津七滝から爪木崎へ水仙を見に行った。まだ早いかなと思っていたけれど、それなりに咲いていて楽しむことができた。しかし、爪木崎は風が強い。強風にあおられながら(駐車料金500円を払ったので)灯台まで歩いた。
灯台までの途中に句碑があった。こうした碑の文字は大抵読めないのだがこれは読めた。「抱かねば水仙の揺れやまざるよ」眸とある(検索したらこの句碑に触れているブログがあった。皆さん見ているんだなあ)。眸は岡本眸のことだな、ブログに何か記事を書いたなあと思いつつ、句を考えたけど浮かばなかった。
夜になって「風の岬」という措辞を思いつく。そこで「水仙や風の岬に眸の句」としたが面白くない。夜半に目覚めてようやく「風の句碑」とリフレインの本句に至った。自分では気に入っている句となったのだ。
春待たず咲くや菜の花爪木崎
爪木崎にはもう菜の花が咲いていた。アロエと取り合わせた写真である。
伊勢海老を食ぶる幸や年の暮
そして宿泊した休暇村「弓ヶ浜」で張り込んで伊勢海老。伊勢海老は二十年に一度。二十年後また伊勢海老を食べたくなったらここに来て食べよう。料理を撮影すればよかったと思ったが後の祭り、代わりに大根の花の写真にする。大根の花に小さな幸を感じてほしい。
ぬくもりて屁の出づるかな冬至の湯
最後は屁。弓ヶ浜の湯は塩化ナトリウム系で後味がべたっとしていまいちだが、ようく温まる。温まったら屁が出たという実体験の句だ。気に入っている。
弓ヶ浜にも水仙が咲いていた。
水仙や美人頭を痛むらし 蕪村
水仙や才を恃みて三十路過ぐ 草間時彦
蕪村の句の「頭」は「こうべ」と読む。さて、水仙はこれからの冬の花。あの清楚な色気がなんともいえぬ。
この週末に伊豆に一泊二日で吟行してきた。 一日目の天候は残念ながら曇り。雨が降らぬだけマシと慰めつつ、浄蓮の滝から天城旧道トンネルを抜けて河津七滝を散歩。踊り子歩道なる遊歩道が整備されていて釜滝、エビ滝、ヘビ滝、初景滝をめぐった。天気がよければもっといい写真を撮れたのになあ(と我が技術を差し置いて思う)。
もう椿が咲いていた。やはり伊豆は山中であっても暖かいのだろう。暖かい土地に咲く早咲きの椿を冬椿と形容していいかどうか自信がないが、俳句にするには冬椿でなければならない。この写真、もう少し椿が咲いていて近距離で撮りたかった。
都々逸ないし歌謡曲みたいな駄句だが、駐車場に戻る坂道でふいと浮かんだ。後で、ああ、伊豆の踊り子の像を初景滝で見たからだと合点がいった。伊豆の踊り子は原作を読んでいないが、吉永小百合・高橋英樹の映画をテレビで見たなあ。ついでに、天城旧道トンネルの一句も添えておこう。
トンネルの中から外を撮った方がよかったかと思ったりする天城の冬であった。
実は嬉しいことがある。というのも、右サイドの「人気記事ランキング」(たいしたアクセスではないから人気記事というのもおこがましいけど)に「西田幾多郎×永井均」が定着していることだ。この記事、ちょうど一年前に書いたものだが、「西田幾多郎」で検索してアクセスされるケースが多いようだ。一年前の記事をいまだに読んで頂いていること、そして、俺の哲学総まとめになっているこの記事にアクセスして頂いていることが嬉しいのだ。
そこで、この記事のエッセンスを下のように簡潔にまとめてみる。問題は、要するに「私とは何か」ということだ。
記号世界(言語経験) 事実世界(純粋経験)
「私」=言語化社会化された私 <私>=具体的実存
心 魂
私は「私」=心と<私>=魂の統合。言語化社会化された私(心)と、いまここに何故か生きているこの私(魂)とが私をつくっているということだ。
「三つ子の魂百までも」と言うけれど、人は魂(精神)を持ってこの世に生まれる。生まれた後に言語を修得し、自分と他人の区別を知り更には社会的訓練を経て大人になっていく。この過程が精神の社会化すなわち社会的現象としての心の形成過程だ。
一方、魂はそうした心の形成過程を見つつ、心と葛藤しつつ生きつづけている。社会化し得ない精神(いま、ここに生きている俺=自我と表現してもよい)が魂だ。
ということで、
私=身体(物理的化学的現象)+魂(精神的現象)+心(社会的現象)
上の単純な等式に俺はたどりついたのである。ああ、この私中毒よ。
「嚏」は「くさめ」と読んでくしゃみのことである。俳句以外ではまず使わない。今朝、寝床の中で隣の咳を聞いて浮かんだ。「嚏してピンクのシャツの似合ふなり」という虚構句を去年ひねったが、本句の方がより洗練されたひねりになっているし、聊かの真実味もあると思っている。
郷土の大先輩、永田耕衣(城山三郎「部長の大晩年」)風の一句となった(と思っている)。
写真は京都南座。冥界の顔見世よ来よ母思ふ。強情強欲な人だった。
本句、「枯木立」かなあ「冬木立」かなあと迷ったけれど結局「枯木立」にした。そこで、「枯木立」と「冬木立」の違いは何かが問題となるが、同じ作者の二句を引いてみよう。
冬木立ランプ点して雑貨店 川端茅舎
枯木立月光棒のごときかな 同
冬→雪→ランプというイメージの広がりがあるので上の句は冬木立でなければならぬ。一方、下の句は月光が貫く木立でなければならぬから枯木立。そんな理屈をつけてみた。
冬木立ひしめくものを身のうちに 桂 信子
反骨のむらむら燃ゆる冬木立 和田耕三郎
三井寺や狂女もあらず枯木立 高浜虚子
今日の日の空を支へて枯木立 星野立子
桂信子はエロスを秘めて凛として冬木立、星野立子は景に叙情を詠みこんでいる。背筋を伸ばして今日も歩こう。
先々週の俳句王国の兼題が冬霞。相場を見ながらぼんやり眺めていたら主宰の方がにこやかに身内の不幸を語っていた。本句はそこで一句となったものだ。
写真をつけねばならぬなあと思っていたら先日の雨上がりの朝、霞というべきか靄なのかとにかく水蒸気が多い朝だった。本当の冬霞ではないけど代用する。
人生に絶対確実なものは自分の死しかない。その時ににこやかに語れるかどうかわからないが歩いて行く。
昨日のクローズアップ現代「韓国大統領選挙のゆくえ」によると、経済成長率5%!の韓国では大学卒業生の二人に一人は就職できず、非正規労働力は三人に一人というように、日本以上の格差社会、ワーキングプアな状況のようだ。
この状況打破の期待の星として今日投票の選挙で大統領当選確実なのが李明博氏。李候補は労働者だった父イ・チュンウ氏の四男三女の5番目として大阪で生まれた。李候補は「4歳だった1945年に家族で日本から帰国したが、船が沈んで持っていた財産も海に消えた。裸一貫からの再スタートだった」と語っている。
格差是正のためには経済成長しかない、と法人税減税、規制緩和など「改革」大統領になることを李明博氏はアピールしているが、もしもこの「改革」が成功すれば日本にも影響なしとは言えないだろう。そういう意味でも次期大統領及び近くて遠い韓国をしっかりと見つめていたい。歴史的に朝鮮・韓国は日本の兄貴なのだから。
参考アバウトミー質問:次期韓国大統領(確実)李明博は経済再生できるか?
人生の領収書なれ木の葉髪
木の葉髪とは「抜け毛が目立つ初冬に、髪を同じく初冬に散る木の葉になぞらえていう語」で冬の季語だ。この季語を使いたくてひねったのが本句。写真は少々恥ずかしいから小さく掲載する。
ところで、「男の顔は履歴書、女の顔は請求書」(藤本義一)という言葉があるが、これに「男の頭は領収書」を付け加えよう。もう、俺は領収書をこれ以上発行したくないが、天然自然のなせる業だから無駄な抵抗はせぬ方がいいかもしれない。
木葉髪わが反骨は痩せざるや 林 翔
鞄のもの毎日同じ木の葉髪 富安風生
木の葉髪泣くがいやさにわらひけり 久保田万太郎
木の葉髪うたひ歎くやをとこらも 三橋鷹女
反骨もいつか黙して木の葉髪。生あるうちは生を尽くそうと思うのである。
癌って遺伝子病だろう(多分)と思って少々安心していたのだが、昨日の日経に興味深いことが書いてあったので記録しておく。「健康ウォーキング がん予防 高インスリン改善」(筆者は日本ウォーキング協会副会長泉嗣彦氏)より一部引用。
身体活動量の増加によるがん予防効果が注目されている。特に大腸がん、閉経後乳がん、食道がん、子宮体がんの予防効果があるという。
歩行や運動、日常生活での身体活動が減るとインスリン抵抗性になり、過剰に分泌したインスリンが細胞の異常増殖を促進させる。
過剰に分泌したインスリンが細胞の異常増殖を促進→癌ということみたいだけど本当かなあ。かなり気になってネット検索したけどよくわからない。そもそもインスリン(インシュリンを最近はこう表記するみたい)が「血液中のブドウ糖(血糖)を細胞内にエネルギーとして取り込むためのホルモン」ということをようやく理解できるレベルだからしようがないか。今度、かかりつけの女医さんに訊いてみよう。
もう俺に残されたことは長生きの義務を果たすことだけ。生活習慣のせいで痴呆になったり中風になったりましてや癌になどとは絶対に厭だ。今朝も30分歩いて夜はプールに行くぞ。
われもまた王子の一人ピラカンサ
千両と万両の区別がつかなかった時に、これが万両かなあと思っていたのがピラカンサ(トキワサンザシ、タチバナモドキ)。これがあちこちの庭や生け垣にあるんだなあ。ハンケチ王子やはにかみ王子などとネーミング王子が流行っているけれど俺だってうどん屋王子だぞ。
界隈に言葉多きよピラカンサス 森 澄雄
腕白の頃の赤さにピラカンサ 坊城としあつ
明け方に引けし子の熱ピラカンサ 上野一孝
ピラカンサ祈ることばのひとつづつ 小山 進
ピラカンサは既に「山査子の実のたつぷりと齢かな」で撮っていたし句にもしていた。嗚呼。
千両(センリョウ科)と万両(ヤブコウジ科)の違い、見分け方がずーっと気になっていたが、この記事を書くために「花の歳時記 冬」の写真と記事、俺の撮った写真を見比べたりしていたらようやく得心がいった。
(1)千両は実が上についている。下についているのは万両。
(2)葉が違う。千両の葉は「長卵形で縁に鋸歯」がある。万両の葉は「長楕円形で縁は波状」になっている。
上の二点で見分ければいいんだ。賢くなったなあ。
いくたび病みいくたび癒えき実千両 石田波郷
書斎とは眠きところや実千両 鈴木鷹夫
万両のほかに生家の記憶なし 富安風生
万両や着丈合ひたる借衣装 飯田龍太
万両と同属同種(ヤブコウジ科)の唐橘を百両、藪柑子を十両と言うそうである。これらについてもいずれ智慧を身につけたい。
「遊び心」という言葉がちょっと気になっていたところ、「あなたは本当のあなたですか?」という質問に出会ってやりとりしていたら、アイデンティとは揺らぎのことではないかと気づいた。
自己同一性というと何か固い芯のようなものをイメージするけど、そうではなくてもっとしたたかでしなやかなもの、それが揺らぎ=アイデンティではないだろうか。
とすれば、「自己と他者の揺らぎを楽しみ何事も楽しもうとする態度」が遊び心ということになる。そして、この遊び心が
(1)自分をゆるす(自己肯定→安らぎ)
(2)神と世界をゆるす(運命に振り回されない)
(3)人間をゆるす(他者との協調)
(4)社会をゆるす(社会に寄与)
というスピノザの赦しの哲学にもつながる。
つまり、肯定(愛)の基盤のひとつが遊び心になると俺は連想ゲームを楽しんだのである。
さて、連想もここまで来ると、以前から考えていた美しく老いるための三要素=清潔・誠実・洗練の洗練を洒脱(遊び心)に置き換えねばならない。美しく老いるために俺は、清潔、誠実、洒脱でありたい。
だいぶ以前、姫路に旅行していたので夜中に目覚めるとすることがない。仕方が無いから外を眺めると満月だった。煌々と空は明るく星も美しい。そうか、これが星月夜(秋の季語。ほしづくよ)かと得心した。
そこで俳句。「星月夜この人生の隠し味」「星月夜照らしてをりぬけもの道」「照らされてけもの道にも星月夜」などひねったがパッとしない。しようがないので発酵させていたら、先日、何かの歌曲で「開け放つ扉」に出会った。そうだ、これを頂戴しようと思いついたのが本句だ。誰も言うてくれへんから自分で言うけど象徴詩(のつもり)である。
星月夜の写真をつけるのは(今の俺には)無理。そこでサルヴァスタイル美術館からゴッホ「星月夜」(→ゴッホは「僕らは死によって星へと到達するのだ」と言ったそうだ)を拝借転載する。俺の星月夜に比べると強烈にすぎないかと最初思ったが、ようく眺めるとそうでもない。ゴッホも同じ星月夜を見たのだと思う。
戸口迄送つて出れば星月夜 正岡子規
砂山をのぼりくだりや星月夜 日野草城
われの星燃えてをるなり星月夜 高浜虚子
星月夜山一つ越え電話帳 川崎展宏
虚子の句はちょっと脂濃い。子規は水臭い。草城が叙情的、でも、展宏にモダン古風な詩を感じるかなあ。人生は詩に満ちている。
いつもは別宅に書いている朝の相場戦術を気分を変えて本宅に書く。
(1)まずは止血。ダラダラと血を流している買いポジの売りポジ過剰分を投げてポジション均衡させる。
(2)証拠金不足退場を避けるべく稼ぐ。前場は下値を探る動きと見て、売りで稼ぐことを基本方針とする。CME日経15595だが寄り付きはこれより高く始まり下値を探るのではないか。寄付きがCMEより安ければ一考を要す。
(3)後場はアジア(上海、香港、インド)の様子を見てからの動きではないか。昨夜のNYは売られ過ぎと見て安値を拾って明日に備える買い方も出てくるかもしれない。
今朝は俳句をつける余裕無し。 なぜかと言えばNY急落。理由は米、0.25%追加利下げ・FF年4.25%したが、市場は0.5%利下げ期待していたため失望落胆売り。俺は0.25%でもFOMC声明分をなんだかんだと解釈して上げると踏んで買い勝負に出ていたのだ。まあ、売りしこりがあるのでなんとかこの難局を打開したい。とはいえピンチはピンチ、そこでアバウトミーに相談した。
息白く富士をめがける車かな
たいした句でも写真でもないけど多摩ニュータウンからこんな風に富士が見える場所もあるということを伝えたくてこの写真である。朝吟行で歩きながらちょっとした発見(俺の思い込み、多分)があれば嬉しくてシャッターを押すのだ。安上がりな趣味だなあ。
息白く真赤な嘘を吐きにけり 黛まどか
息白き子のひらめかす叡智かな 阿波野青畝
わが書きし字へ白息をかけておく 加藤楸邨
汝もわれも凡夫の息の白きかな 久保田万太郎
黛まどかは句集「B面の夏」で一世を風靡した女流俳人だ。公式プロフィールに美貌と略歴があるが、生年がわからず不満の人はウィキを参照すること。句集「B面の夏」にどんな俳句があるのと興味を持った方は「B面の夏」 風の歌を聴けに飛んで下さい。ここから一句だけ拝借する。「モンローと名づけられたる猫の恋」黛まどか。
「人生の下積み知らず落葉踏む」で例句を引くべきであった。
夫恋へば落葉音なくわが前に 桂 信子
白き手の病者ばかりの落葉焚 石田波郷
手が見えて父が落葉の山歩く 飯田龍太
落葉ふみ誰にもわかる句を詠まな 富安風生
こういう句を記憶しておいて落葉を散策するとまた感慨もいとおしく深くなる。そして、歳時記の落葉の項の隣には木の葉がある。
木曽路ゆく我れも旅人散る木の葉 臼田亜浪
ほろほろ酔うて木の葉ふる 種田山頭火
木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ 加藤楸邨
楸邨の句がじーんと来る。いそぐなのリフレインが心地よく俺を諭すのである。
アバウトミーに「数は実在するか?」という質問を出した後に、その当然の延長線上の質問「実在とは?」を出してみた。そして、これに対する俺の答えは「概念と実在とは図と地の関係。全ては記号である」である。この答えを読んでもらうと俺の記号世界論をひととおり理解してもらえるなあと自己満足した。右のウサアヒルを眺めながら読んで頂けるとチョー嬉しいのである。
銀の匙をくわえて生まれてきた訳ではない。かといって極貧赤貧に育ったということもない。思春期は相当の苦労もした。世間並みと比べて仕合せということはなかったなあ。なんとか社会に出てまずは形式的には順調と言っていいだろう。おまけに早期退職までして気ままを通せた。だから、おまえは世間の下積みを知らないのだと言われても反論できないだろう。そんなことを思って落葉を踏んだのである。
ちなみに、幸福は内容か、形式かという質問を提出した。形式は客観、内容は主観、幸福は主観と客観の統合であるというのが当たり障りの無い答えだろう。
昨日の日経夕刊「追想録 関本忠弘さん」から面白い言葉を拾っておく。(ちなみに検索したら、孤独な会長室に巨大なオルゴールが鎮座しているのを見た時、初めて私は一見絶好調に見える日本電気の将来に危機感を感じた。というブログが見つかった)
歯切れの良い言葉で相手にぐっと迫った。「マジョリティーは現在のために、マイノリティーは未来のために」(少数意見のなかにこそ進歩がある)。
ほほう、NEC中興の祖と言われるだけあってなかなかええこと言うやんかと思って続きを読むとこんなくだりがあった。
経団連会長を目指したときは大物政治家らが応援団を結成。政界とのパイプづくりに精を出す様子はまさに旧来型経営者だった。「政官財の鉄の三角形の結束を弱めては誰のためにもならない」。学界、労働界、報道界を含めた「新六角形(ネオ・ヘキサゴン)が二十一世紀を引っ張ると提唱したが、現実は投資家と消費者の時代になった。
政官財(+学労報)vs消費者・投資家かあ。前者は俺が政官財癒着を打破したイノベーションこそがほんとうの改革としたものだけれど、後者もなあ。投資家、消費者というのはまるっきりそのまんま私益だもんねえ。部分最適しか追求できないのは目に見えてるなあ。
消費者も投資家も所詮は個別利益追求主体。だから、俺の新左翼の条件=(1)反帝国主義(2)自由主義(3)多元主義(4)社会的共通資本の重視のうち(1)~(3)はクリアできても(4)社会的共通資本の重視(これが公益)とは利益相反になる。ここのところに政官財(+学労報)すなわち有識者(プラトン言うところの哲人)が必要になる理由がある。
どうしたら哲人を育てられるかわからんけれど、二十一世紀は消費者・投資家+哲人の時代としておこう。出でよ鉄人28号!
※画像は懐かしのTVアニメのページから勝手拝借しました。感謝です。
枇杷咲いて私の彼はバッハ好き
数日前だったか、朝のNHKニュースを見ていたら、枇杷の花から蜂蜜を採取している様子を伝えていた。ほう、枇杷の花は今頃だったかと隣の家の庭の枇杷の木(正確に言うと専有庭ではなくて共用部分に植わっている)を思い出した。
朝吟行のため家を出て枇杷の木を眺めたら花らしきものがある。そこへちょうど隣の奥さんがいらしたので許しを得て庭に立ち入って撮ったのがこの写真である。お隣の二階からはもっとよく見えるとのことだった。
さてそこで、俳句が必要となる。枇杷の花からの連想で、ここは渋くバッハ。そういえばバッハ好きの人がいたなあ。ようし「私の彼はバッハ好き」にしよう(「わたしの彼は左きき」の安易な転用)ということで本句となった。だから、俳句はともかく枇杷の花が収穫である。
枇杷の花は例句を引いて季語のイメージを固めておこう。
職業の分らぬ家や枇杷の花 正岡子規
故郷に墓のみ持てり枇杷の花 福田蓼汀
裏口へ廻る用向き枇杷の花 山崎ひさを
遠ざけし人恋ふ枇杷の咲きてより 鷲谷七菜子
ひっそりと地味にそして結構(高い木だから)高いところに咲く花である。
観念的な句だなあ。寄物陳思と言いながら実際の句はこんな有様で言行不一致である。ちなみに「一生」は「ひとよ」と読んでほしい。
逝く秋を惜しんでひとこと@アバウトミーに使った写真を本宅でも生かしたかったので、自由意志の否定が「実生活のためにいかに有用であるか」@スピノザから派生させた句である。(事実)世界は肯定と必然性で満たされているのである。
12月に入ったのだから今更紅葉でもないのだけれど、「人間到る処青山有り
「一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております」山崎方代(我が初恋を披露しているやんかぁ)と「鰯雲人に告ぐべきことならず」加藤楸邨(俳句というものの本質を語っている作品と言われている)のかけあわせ本歌取りである。
自分ではワリと気に入っている句だ。そして、饒舌もまた悲しいのである。
NHKのクローズアップ現代を毎日録画して晩飯を食いながら見ている。昨日の番組「シリーズ地球温暖化 自然エネルギーは増やせるか」は出色の出来だった。まず最初にジャパンアズナンバー1と素朴に信じている人にとって衝撃の数字を引く。
各国の自然エネルギーの導入目標は、ドイツ45%(2030年)、中国21%(2020年)、アメリカ15%(2020年)、日本1.63%(2014年) ※以下、青字は左のブログからの転載。お世話になります。
おいおい、ドイツはしようがないとしてもあの中国、アメリカにも(目標ではあるけれど)断然の差をつけられているんだぜ、環境省は何をやってるんだと言いたいなあ。
そして、日本における自然エネルギー(風力・太陽光等発電)導入のネックになっているのがコスト問題。
自然エネルギーで作った電力を電力会社に買い取らせてコスト回収するのだが、電力会社の経営のことを考えると闇雲にコストの高い自然エネルギーを買い取らせる訳には行かず、5年前に作った新たな自然エネルギー普及制度(電力会社に電気の供給量の一定の割合を自然エネルギーでまかなうように義務づけ)でも、その割合はわずか1.35%。
これに対して環境先進国ドイツは電力会社に自然エネルギー電力を無制限に買い取るよう義務づけている。買い取る価格は風力発電の場合、発電にかかるコストよりも40%高く買い取るように設定されています。1キロワット時あたり約12円。風車の建設から20年間はこうした優遇策を受けられます。
どうしてこんなことが出来るかというと、利用者にも電気料金を1世帯あたり200円~300円上乗せしているからだ。電力会社は料金値上げになると経営体力に影響すると反対したが、例の緑の党(現在、47議席を持つ5番目に大きい党)の強力なリーダーシップと世論の支持によって実現できたそうだ。このあたり、電力会社から政治献金を貰っているわが自民党と対比されよ。
そして(大事なのはここから)ドイツでは太陽光発電パネルの開発、生産など環境関連技術をこれからの基幹産業と位置づけて育成しようとしていることだ。環境環境とお題目を唱えるだけではなく、持続的に儲かるビジネスとして環境対策を位置づけているのである。
こういうのが本当の改革でありイノベーション(今は亡き安倍総理がお題目だけを提唱)である。日本の優位性(清潔・安全・一応自由かつ公正な社会)を維持充実させ、新規産業を興すために<既得権(電力会社と自民党、官僚つまりは政官癒着)を打破して>我々の税金を効果的に使う、それが改革だ。そんな政治勢力を国民は育てないといけない。あほな国民は愚劣な指導者しか頂けないのである。ドン・キホーテよ出でよ。
※写真は茨城県神栖市(旧波崎町)の風車だそうだ。ラナの日々 ここはどこの風車?から勝手転載させてもらった。感謝です。
昨日の「浪漫は憧れのこと石蕗の花」を得た後、毎日の定例朝吟行でこの風景に出会ったら即吟で出てきた句である。ほとんど無意味無内容な句だけれど(この句の出来がいいかどうかは別にして)俺の目指す平明でシュールな俳句の路線上にはあるだろう。
俳句は理屈ではなくて感じるもの、そして、言語ゲーム、もっとわかりやすくいうと季語をめぐる連想ゲームだと思う。そういえば、あの連想ゲームという番組は面白かった。昔話で(若い人には特に)恐縮である。
浪漫は憧れのこと石蕗の花
ロマン、ロマンチック、ロマンチストなどという言葉がずっと気になっている。日本語に対応するぴったりした言葉が無いように思うからだ。とりあえず、情感という言葉を当てて、人間の感情の基本要素は欲望・喜び・悲しみ+情感(おお、俺はスピノザを超えた)と悦に入ったのだがどうも座りが悪い。ロマン=情感というのは端的な対応ではないと思うからだ。今朝も「えらいロマンチストですね~土曜日さん」とコメントされて必死で否定する始末だ。
ところが先日、ブラームスの交響曲1番第2楽章を聴いていて突然閃いた。そうだ、ロマンって憧れのことなんだ。ブラームスはクララ・シューマンへの思いをずっと抱き続けて25年かけてこの曲を作った。この第2楽章はクララへの憧れの表現なのだ。これをロマンというのだ。
ということで「浪漫は憧れのこと」というフレーズを得た。後は季語及び下五である。
そしたらテレビのNHK俳句だったか短歌だったか巻頭の季節の花紹介が石蕗の花だった。これが石蕗の花かあ、なんやあ、これやったらそんじょそこらに咲いているやないかあ、アホやなあ無知やなあということで一句が完成したのである。
一生を辞書編纂や石蕗の花 五所平之助
つはぶきはだんまりの花嫌ひな花 三橋鷹女
静かなるものに午後の黄石蕗の花 後藤比奈夫
石蕗咲くや死よりも老のうとましき 鈴木貞雄
そして、憧れは寂寥と重ね合わせ。憧れは大抵、叶わぬものであるから。
かくして、ロマン=憧れ+寂寥。こんな見方が世間では通じるのだろうか、そこでアバウトミーに質問を出してみたのだが。
「月曜の東京市場は急騰、16千円台回復か」というガセネタを勢いで書いてしまったが、昨日の日経夕刊「ウォール街ラウンドアップ サブプライム救済策を好感」からガセネタの埋め合わせを転載する。
「一日のほとんどの時間を住宅問題に費やしている」と語るポールソン財務長官。住宅ローン担保証券の買い取りファンド構想に続いて打ち出した対策が、下げ止まりの兆しの見えない信用市場の底値固めにつながるかどうかが注目される。
この「買い取りファンド構想に続いて打ち出した対策」が今回報道された住宅ローン金利凍結策だ。早ければ5日にも公式発表とのことだが、国防総省→ゴールドマンサックスCEO→財務長官という産軍官ウォール街複合体(米帝国主義)の象徴のような華麗なキャリアの持ち主が「一日のほとんどの時間を費やして」打ち出す対策を<超短期では>買わない筈はないと思う反米帝相場師見習いの俺である。
※画像はdiary2006-05映画「父親たちの星条旗」硫黄島1から勝手拝借させてもらった。
1945年に発行された星条旗掲揚の図柄の切手です。
アメリカ国民の絶大な人気を集めたシーンですから切手の図柄になっても不思議ではありません。しかし、実はこのシーンを切手の図柄にする提案がなされた時、アメリカ郵政省は、最初はそれを拒否しました。これまでのルールでは、切手の図柄にその時点で存命の人物を描くことはできなかったからです。
しかし、国民の要求が大きかったことに加えアメリカ連邦議会もそれを支持したため、ついに、郵政省は折れ、摺鉢山の国旗掲揚から5ヶ月後の1945年7月11日に切手は発行されました。
その日、暑い日であったにもかかわらず、アメリカ国民はこの記念切手を購入するために長蛇の列を我慢しました。1日に40万枚の切手が売れました。
それ以後、この3セント切手は何年にも渡って「ベストセラー」を続け、合計1億5000万枚以上売れました。
とのことだ。アメリカは人工的に作られた国家だからこそ国家主義抜きでは成り立たないお国柄である。星条旗よ、永遠なれ。
たったいま、思いついた。構成主義的唯物論が左翼を甦らせる。これもアバウトミー「いのち」って何?のお陰だ。
構成主義的唯物論の具体的内容は「心の場所化とモデル論的転回が哲学の脱構築(唯物論への回帰)をもたらす」を参照。我ながらよく書けている(俺が言わなきゃ誰が言う)。我が哲学の到達点だ。
※相場の無い日曜日、今朝は充実していた。俳句伝統派にめぐり合えたり、俺(情報)は死なないことを発見したり、「穏やかな」朝である。
朝吟行で見かけた近所のお家。ご主人(男女を問わず)が丹精こめて作ってらっしゃるんだろうなあと一句である。そして俺は、と我が身を思うのである。
※本句、バリ島に行けなくなったペリエさんに進呈した。小さな親切、大きなお世話。
アバウトミーで「いのち」って何?という質問にめぐり合ってお喋りしているうちに
ウィルス(情報)に死は無く個体(細胞)に死はあるんだ。
というセンテンスを書いてしまった。そうか、俺(個体)は死ぬけれど俺(情報)は死なないんだと一瞬思ったけれど訂正、やっぱり俺(情報)も死ぬんだ。俺には子が無いから。
サミシーイなんてウソ。子供がいたらこんな極楽やってないもんね。
※画像はあたしの極楽 極楽の王様、あたしは偉い!から勝手転載感謝です。
朝(俺の場合、午前3時過ぎが朝)の定例行動は
(1)このブログの「今日の一句」(右サイド下方)に手元の歳時記から一句を拾って書く。
(2)清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』の今日の一句を読む。
(3)坪内捻典「俳句e船団ホームページ」の今日の一句を読む。
と、今日の一句三点セットである。
そして、(3)の捻典さんが先日、俳句伝統派宣言をされた。面白く、また、作句の重要なヒントになるので引いておく。「冬の駅前犬過ぎ人過ぎぬけがら過ぐ」加藤楸邨の記事でこう書いている。
最近、思うのだが、私としては俳句の伝統派を宣言したい。初期の俳諧、すなわち宗鑑や貞徳などに始まり、芭蕉、蕪村、子規と続いてきた俳句の伝統を継ぎ、それを未来へ向けて開く伝統派だ。もちろん、日本伝統俳句協会などよりも本格的な伝統派。日本伝統俳句協会の俳人などはせいぜい虚子を継ぐモダニストに過ぎない。
そして翌日、「わが音となりて歩けり冬の靴」加藤楸邨の記事で俳句伝統派の要件を定義している。
昨日、「俳句の伝統派」を宣言した。伝統派の条件の一つは、俳句の基本が言葉遊びだということを理解していること。また、すでにある何かを表現するのではなく、575音の言葉自体が何かを表現するという機微を理解していること。この2つが俳句の伝統派の要件だ。
これを俺流に表現すると、俳句とは(1)言葉遊び(2)事実世界の何か(すでにある何か)ではなく俳句自体が記号世界の独立した存在であるという機微ということだ。
つまり、俳句は言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)→チェスの駒が「何か」を意味しているのではないのと同様に、言葉(語、さらには文)も「何か」を意味してはいない。言葉の意味とは言語におけるその使用形態(体系)の代表例ということになるのだ。
おお、捻典さん(俳句伝統派)は芭蕉とウィトゲンシュタインを結びつけていたのだ。俳句は(写生俳句でさえも)記号世界における言語ゲームである。だから、屁理屈好きの俺は俳句で遊んでいるのだと得心したのである。短歌は情、俳句は理(遊び)なり。
※捻典さんの画像を探したのだけれどあまりなく、不鮮明な写真しか見つからなかった。坪内稔典氏 講演「詩と俳句のことば」から勝手転載するが、この講演要旨、読んで損は無い。伝統派宣言するその心がわかります。
アメリカの属国日本のことをアメリッポンないしアメッポンと呼ぶそうだ。昨日の日経「私の履歴書」田淵節也氏の最終回で書いておられた。そのアメリッポンに関して面白いことを書いているので引いておく。田淵氏は、大統領選で民主党が勝てばイラク戦争厭戦気分が一段と高まり、中東情勢は混沌とするとした上で以下のように書いている。
軍事力に翳りが出れば、ペーパーマネーのドルの信認が低下し、米国は金や原油、穀物などの実物資産を裏付けとする新しい通貨制度を考え出すのではないかと思う。
そうなれば、金本位制が「ドル紙幣本位制」に変わって以来の大変化だ。世界中が混乱し、アメッポンの日本は一番大きな影響を受ける。既に政界はざわついてきた。
「実物資産を裏付けとする新しい通貨制度」がどんなものか不明だが、基軸通貨の多極化の範疇に入ると思われる。端的に言うとドル資産が揺らぐということだ(ロシアも中国も中東諸国も日本もドルの急落は困るのに)。このことを野村証券元会長が新聞で明らかにした点でこの記事は意義深い。
ドル帝国主義の崩壊は歴史の必然と俺は考えるが、急激な変化は避けてできればソフトランディングしてほしい。だから、今回のサブプライム問題でも強いドルを維持しようとする米政権の動き(住宅ローン金利凍結その他)についても超短期では成功すると見て昨日俺は買い方に半身転換した(少なくとも来週は買い方勝負)。
だけれど、戦争はキライ。田淵氏は、軍事力も持たずに金融立国はありえない、幻想だと書いているが、金融立国のために軍事力強化などは絶対に反対だ。
銭も平和も自由も公正も欲しい。これが戦後民主主義である。これを守れるか、日本人民諸君。
アメリッポンの大転機の時代がアメリカ帝国主義の黄昏と共にやってきたようだ。
姫路城をたまたま撮影した日の前日は定宿のウェルサンピア姫路ゆめさき泊。翌朝、出発しようとして公道からの進入路の生垣のピンクの山茶花に気づく。バックの紅葉した里山と一緒に撮ると絵になりそうだなあと写したのがこの写真だ。山茶花が喜んでいるように見える。駄句とマッチなのかミスマッチなのか、自己陶酔症の俺には判断がつかぬ。
ところで、このウェルサンピアでいつも飲む熱燗が旨い。八重垣という地酒だそうだ。検索してみると一升瓶で\1887(別の銘柄の酒も造っているようなのでこれかどうか)、試しに買ってみるかと一瞬思ったが送料\620かかるので止めた。今度、姫路に行ったら買って帰ることにする。山茶花や人も清酒も里の味
NYが上げ幅を大幅に縮小。住宅ローン金利凍結のウォールストリートジャーナル報道だけでは大した反応しなかった(政府の公式発表無し)ということか、それとも、金利凍結はサブプライムローン問題解決に期待できずということか。
ともかくもまあ、根性不足で全力買いしなかったことが救いとなったか(とりあえずは)。
ううっ、こんなこと書いている間にマイ転しているではないか。涙。
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