捻典さん、俳句伝統派宣言
朝(俺の場合、午前3時過ぎが朝)の定例行動は
(1)このブログの「今日の一句」(右サイド下方)に手元の歳時記から一句を拾って書く。
(2)清水哲男『新・増殖する俳句歳時記』の今日の一句を読む。
(3)坪内捻典「俳句e船団ホームページ」の今日の一句を読む。
と、今日の一句三点セットである。
そして、(3)の捻典さんが先日、俳句伝統派宣言をされた。面白く、また、作句の重要なヒントになるので引いておく。「冬の駅前犬過ぎ人過ぎぬけがら過ぐ」加藤楸邨の記事でこう書いている。
最近、思うのだが、私としては俳句の伝統派を宣言したい。初期の俳諧、すなわち宗鑑や貞徳などに始まり、芭蕉、蕪村、子規と続いてきた俳句の伝統を継ぎ、それを未来へ向けて開く伝統派だ。もちろん、日本伝統俳句協会などよりも本格的な伝統派。日本伝統俳句協会の俳人などはせいぜい虚子を継ぐモダニストに過ぎない。
そして翌日、「わが音となりて歩けり冬の靴」加藤楸邨の記事で俳句伝統派の要件を定義している。
昨日、「俳句の伝統派」を宣言した。伝統派の条件の一つは、俳句の基本が言葉遊びだということを理解していること。また、すでにある何かを表現するのではなく、575音の言葉自体が何かを表現するという機微を理解していること。この2つが俳句の伝統派の要件だ。
これを俺流に表現すると、俳句とは(1)言葉遊び(2)事実世界の何か(すでにある何か)ではなく俳句自体が記号世界の独立した存在であるという機微ということだ。
つまり、俳句は言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)→チェスの駒が「何か」を意味しているのではないのと同様に、言葉(語、さらには文)も「何か」を意味してはいない。言葉の意味とは言語におけるその使用形態(体系)の代表例ということになるのだ。
おお、捻典さん(俳句伝統派)は芭蕉とウィトゲンシュタインを結びつけていたのだ。俳句は(写生俳句でさえも)記号世界における言語ゲームである。だから、屁理屈好きの俺は俳句で遊んでいるのだと得心したのである。短歌は情、俳句は理(遊び)なり。
※捻典さんの画像を探したのだけれどあまりなく、不鮮明な写真しか見つからなかった。坪内稔典氏 講演「詩と俳句のことば」から勝手転載するが、この講演要旨、読んで損は無い。伝統派宣言するその心がわかります。
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