久しぶりの短歌
したたかは大人の美徳転んでもタダでは起きぬ達磨とならむの欲しき
アバウトミーで質問「団塊のココが嫌い」にコメ「頑固 ってか全て?」→レス「私、頑固かつ柔軟でありたいと思いました」のやりとりをした。そうしたところに、たまたま恩義さんのブログで「「ゆとり」とは柔軟な政治的発想」という言葉に出会った。
そこで、「したたか」という言葉に思いが至り本歌となったものだ。出来はよくない。詩ではないし説教臭い。ああ、嫌だ厭だ。しようがないから「したたかですか?」と公衆に訊いてみた。
したたかは大人の美徳転んでもタダでは起きぬ達磨とならむの欲しき
アバウトミーで質問「団塊のココが嫌い」にコメ「頑固 ってか全て?」→レス「私、頑固かつ柔軟でありたいと思いました」のやりとりをした。そうしたところに、たまたま恩義さんのブログで「「ゆとり」とは柔軟な政治的発想」という言葉に出会った。
そこで、「したたか」という言葉に思いが至り本歌となったものだ。出来はよくない。詩ではないし説教臭い。ああ、嫌だ厭だ。しようがないから「したたかですか?」と公衆に訊いてみた。
スリリングな本に出会った。橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」。時間は生命(意思)と共に生まれたというのがこの本の結論であるが、この本のおかげで相対論がイメージできたので記録しておく。
普通、我々はいかに離れた場所にいても「現在」を共有していると考えている。
たとえば、東京の午後24時という「現在」は時差を勘案すればニューヨークの午前10時となり、同じ「現在」ということだ(こういう理解がニュートンの絶対時間空間)。
しかし、ほんとに同じ時刻かどうかを確認するためにはなんらかの手段で通信することが必要だ。そして、通信といえども瞬時の交信はあり得ず少なくとも光速のディレイが生ずる。この光速のディレイのために「現在」であることを確認できない時空のエリアが生ずることになり、それを著者は非因果的領域と呼ぶ。
過去は現在に因果を及ぼせる領域、未来は現在が因果を及ぼせる領域であるのに対し、非因果敵領域は光速より速いものは無いので私の現在になんら因果関係を持ち得ない領域ということだ。
つまり、私と「現在」を共有するのは「あの世」非因果的領域のみ、言い換えると、今という瞬間を私は誰とも共有できないということである。
光速が有限であることの発見はこうしてニュートンの絶対時間空間論を崩してしまうのである。光速の有限性(及び光速より速いものは存在しない)の発見は、空間と時間とが独立ではなく相互に関係していることを示したのである。
ところで、光速は有限であると同時にどの慣性系から見ても一定である(光速不変
の原理:真空中の光の速さは光源の運動状態に無関係に一定である)。光速に近いロケットから見ても自転車から見ても光の速度は同じでなければならないのである。ちなみに、光以外のもののスピードは自転車から見るのと高速道路を走っている自動車から見ると異なって見える(日常生活で我々が経験する相対速度:時間軸の傾きの差)。 図のβ(時速70キロの自動車)からα(時速100キロの自動車)を見るとお互いの時間軸の傾きの差だけ(時速30キロ)に見える。
この光速不変の原理を説明するためのアインシュタインのアイデアが画期的だった。すなわち、動いている人の座標系は時間軸が傾くだけではなく、空間軸も傾くとした。これを数学的に表現するとミンコフスキー空間(時間軸は実数、空間軸は虚数)となる。このあたり、説明がややこしいので省略する。
図を見てイメージされよ。
以上の記述で、時間と空間とは密接に関係することがわかってもらえただろうか。更に、ミクロの世界(量子力学)では時間も空間も消滅するという。ミクロの世界では不確定性原理(ある粒子の運動量と位置を同時に正確に知ることは、原理的に不可能)が妥当するから、電子一個について時間を議論することは無意味(電子には位置や速度が付随していない)、更には因果律も排中律も無意味となる(二重スリット実験:単一の粒子が「広がった空間の確率分布を支配する何か」の性質を併せ持つという一般的な直観に反する事実を認めるしかない)。
ああ、このあたりも説明が難しいなあ(俺も理解してないんだもん)。要するに、素粒子は粒子であると同時に波(空間の確率分布という表現が正しそう)だから、モノというよりは空間に偏在するコトと理解して時間、空間が付随しないということを納得するのが近道である。
著者は、哲学にも一歩踏み込んで「真の実在は物質(モノ)ではなく運動(コト)」と主張している。その傍証として、運動(速度)=距離÷時間の方程式について次のように述べている。
暗黙のうちに距離と時間が基本概念、速度はそこから導かれる派生的な量とみなす思想は、デカルト以降に生まれた人間理性を優先する思想であって、アリストテレスに見られるように生命の直観ではまず運動(速度)が先にあるのである。
上の文を俺の概念で表現し直すと、時間も空間も記号世界の産物、事実世界にあるのは運動(確率分布)のみ。運動(速度)=距離÷時間の方程式は距離、時間という記号を利用した記号化するための式ということになる。
以上をまとめると、相対論→時間も空間も記号、不確定原理→ミクロ世界にまで落とすと真の実在は運動(コト)というのが結論である。わかったかなあ、わからんかったやろなあ。
図書館で河西善治「西田幾多郎の真実」という本を見つけたので期待して読んだ。「独創的」哲学者の剽窃と戦争協力の構図という副題の「戦争協力の構図」の方は言い古されたテーマだからあまり期待していなかったが、この本の第一章で宮台真司、廣松渉、今村仁らを
社会主義がこけてマルクスがオシャカになって久しいが、このマルクス主義のガラパゴス島ではまだ追善の読経が続いている
と批判した後で
なぜ経験が認識に転化しないこうした信仰告白が繰り返されるのか。
私はこれをシュタイナーの「自由の哲学」にならって、知情意という人間の心的能力における思考(知)と感情との関係の問題として考えてみた。
このことによって、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮澤賢治「農民芸術論綱要」というユートピア(あるいはオルタナティブ)を実現するための思想形成の端緒がつかめると考えたからである。
というところに期待したのだ。つまり、サヨ(旧左翼)が抱えていた、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という理念ないしエエカッコシイと利己心(そこから来る権威主義、岩波朝日文化を想起せよ)との分裂を知情意という人間の心的能力における思考(知)と感情との関係の問題として解明してくれるのではないかと期待したのである。
ところがどっこい、続く章では、西田の純粋経験はシュタイナーの「ゲーテ的世界観の認識論的要綱」からの剽窃とか(ウィリアム・ジェームズからかなりの影響を受けているというのは以前から言われていること)西田が戦争協力文章を自ら進んで書いたのだという表層的なことばかりで失望した。
旧左翼(心情左翼と呼んだ方が適切か)の理念と利己心との相克はシュタイナーを持ち出すまでもなく知情意の分裂(知識では同胞愛、情では利己心)ということで解決済みなのかなあ。機会があればシュタイナー(入門書、たぶん)を研究してみよう。
そんなこんなで欲求不満解消するべくアバウトミーに質問「サヨのここが嫌い」してみたけど、回答の集まりが悪い。アバウトミーって心情左翼の純情人が多いようである。
日曜の日経に「百寿者に学ぶ秘訣 動脈硬化や糖尿病予防で長生きに 誠実さなど性格も影響」という記事があったので、そこから性格と長生きの関係図を切り取っておく。
百歳まで長生きした人を百寿者と呼ぶそうだ。1950年に全国で百人程度だっだが、2007年には3万2千人を突破したとのことだ。責任65、目標80、理想100。百歳で「リバーサイドホテル」を歌って鐘を鳴らしたるねんを標榜している俺としては気になる数字だ。
そして、百寿者の性格的要件は、外向性、誠実性、開放性だそうだ(慶応病院による百寿者300人調査結果)。俺にピッタリだなあといつもの我田引水である。
今朝のアバウトミー、付いたコメントが21件といつもよりちょっと多い目。いろんなことを思いながらレスした。ここに記録すべきものをいくつか。
まずは歌を頂戴したことをログらなきゃなあ。俺の質問「日本はいつまでアジアの孤児なのだろう?」に「恐縮と お茶を濁して 粛々と 無知ひけらかす サヨク老害」と頂戴したので「無知を知り人の言葉を受け止めて左翼を目指す我は老害」と返歌した。有り難いことである。この方、前にも「目を瞑り耳を塞いで口は出す 三国人とサヨク・マスゴミ」と歌コメされている。なかなかの達人だ。
次は戦後日本「発展」の要因分析。これも俺の質問「在日問題について」でのコメ・ラリーで「民度の高さ、集団主義文化、戦後改革成功が戦後日本「発展」の要因と言えます」という認識に到達した。問題はこれら要因が既に賞味期限切れになっているということだ。
民度は落ち、集団主義文化は行き詰まり、戦後改革(とりわけ農地解放による活力と人口流動性)は遠い過去の歴史になってしまった。教育改革(若者に住み難き国梅の花)と地方活性化と公務員制度改革(キャリアシステム、天下りの廃止)が日本再生の鍵と思う所以だ。
最後は漱石。「貧しさとは何だろうか?」のラリーで「日本は非キリスト教社会での新しい個人主義を目指している社会だ」との認識に至った。「自己本位と則天去私」なる説教質問を作ってしまったけれど、漱石は集団主義文化と西洋近代個人主義との相克を則天去私で止揚したかったのだと思う。そこで、俺も漱石にあやかって則天去私個人主義を目指そう。いつかお召しが来る日まで。
先日、クローズアップ現代で放送していて気になっていたが、たまたまビデオを見つけたのでリンクさせてもらう(こちら)。フィンランドに塾が無いというのは本当だろうか?
ちなみに、学力先進国フィンランドから学ぶものから下記を転載。
というものがあるそうだ。溜池通信で知った。骨子だけを拾って俺流に表現すると(原文はリンクしやすいようにこちらに転載させてもらった)。
(1)最初は"They":世の中の公式見解紹介して批判
(2)お次は"You":でも、あなたは違う、とか、あなたどうする、などと考えさせる
(3)かなりたってから"I":問題意識を持たせた上で「私は」と切り出す
(4)最後は"We":我々は出来るのだと扇動する
ちょっと練習してみよう。
(1)小泉改革は正しかったか。格差が拡大しただけではないのか。
(2)あなたの周りを見よ。リストラされたオヤジ、日雇い派遣、ニートだらけだろう。
(3)私は変える。ほんとうの変革だ。
(4)今こそプロレタリアートの時代だ。あなたたちプロレタリアートが団結すればできる。
ということで、ミニ・ヒトラーがここに誕生する。自由の女神はアジテーションによっていつでもヒトラーに変身可能なのである。
アバウトミーで知ったねこてつさんという方が週刊ウィトゲンシュタインという記事を書いていらっしゃる。先日知ったばかりでちょっとずつ拝読中。その中で、今日読んだ記事「私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する」の解読が秀逸だったので勝手一部転載させてもらう。
私たちは言葉を使って考える。ところで、考えることのできないも
のは、考えられない。だからそれが言語の限界だ、というのではなく
て、ウィトゲンシュタインは「世界の境界だ」と言うのです。ここで
またまた ? …
実例をあげて考えてみましょう。「無」を考えることは可能か。
「無」というと、空間に何もない状態を思い浮かべちゃいますね。
でも、それでは完全じゃない。空間が存在している以上それは「無」
とはいえない。では、その空間を取り払ってみると、「無」は限りな
い小さな一点に収斂して、消え失せる。それでおしまい。それ以上、
考えられない。絶句。これが言語の境界ってやつなんです。
記事はまだまだ続くのだけれど、要するに「無といっても空間が存在することが前提だろう。空間を取り払えば無だって消失するではないか。だから、私の言語の境界が、私の世界の境界を意味するんだよ」ということだと理解した。
俺の世界的微小「論考」入門では、このあたりのことをこう書いている。
要するに「論考」は、あなたがあなたの脳内につくる世界のモデルに関して、どこまでが万人共通でどこからが存在論的経験と価値観の相違に応じて異なるのかを示してくれる。人はどこまで解りあえるかという問題提起の書だったのである。だから、語りえぬものについては、沈黙しなければならない。言い換えると、語りうるものについては明晰に語らねばならないのである。
思考は言語に頼らなくては不可能。そして思考は脳内に世界モデル(記号世界)をつくる。そしてまた、私たちは私たちそれぞれの記号世界に照らし合わせて事実世界を理解しようとする。だから、「私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する」のである。言い換えると、経験は言語で限界づけられているということである。
ああ、でもこれは事態の反面でしかないなあ。経験は言語で限界づけられている、すなわち、物(言語)が我を限定するけれども、他方で、我が物(言語)を限定する。つまり、
物が我を限定する世界の中にあり、同時に、我が物を限定し世界を作り出すということだ。行為・身体を純粋経験に付加することにより西田は、世界内存在であり同時に世界を変革する人間の歴史性社会性を実在を説明する基礎として据えたのである。
ということで、やっぱり、俺は西田幾多郎に戻るのである。
「BSエンターテインメント 歌伝説 愛の讃歌 作詞家 岩谷時子」
が面白かったので、老後の愉しみとするべくDVDダビング永久保存した。越路吹雪との密接な関係や加山雄三の曲の作詞家だとは知っていたが、ザ・ピーナッツ「ふり向かないで」や園まり「逢いたくて逢いたくて」の作詞も岩谷だとは知らなかったなあ。
岩谷時子ってどんな顔をしているだろうとかねがね思っていたので、テレビ録画から取り出した(半日苦労の結果の)写真を何枚かつけておこう。1916年生まれ、91歳健在で
ある。
※ついでに園まり。右も左も園まりである。
これでテレビ画像→ビデオ録画→DVDダビング→PC→ブログに写真掲載というルートを確立できたことになる。半日仕事であった。フリーソフトGOMPLAYERを利用。詳しい手口はこちらとこちらを参照のこと。
昨日放送のN響アワーのゲストは日野原重明さん。ベートーベン「皇帝協奏曲」、フォーレ「レクィエム」なんかを放送していたが合間に鳥の歌が聴こえた。チェリスト徳永兼一郎氏の最後の演奏。ああ、癌で亡くなったんだ。
だそうである。平成8年5月17日死去、55歳。俺はもうすぐ還暦である。
※写真は鳥の歌の作曲者パプロ・カザルス。この曲の原曲はカザルスの故郷カタルーニャのクリスマス・キャロルであり、聖誕を鳥が祝っている様子を歌っている。鳥が「peace」とさえずるように演奏することで有名。とのことだ。
昨日、たまたまテレビを観ていたら橋下大阪府知事が生出演。江川紹子とやりあっていた。
府知事は「図書館以外無くす」と発言したみたいだが、それについて江川が突っ込んだら府知事弁明「セーフティネットは残すと言っている。テレビは断片だけ切り取って報道する」。江川反論「そういうテレビの特性をよく知っているくせに」というやり取りが面白かった。
そこで橋下徹なる人物をもっと知りたくてウィキペディアしたら
関西系の情報番組で、飛鳥会事件が取り上げられた際、「私はこの飛鳥地区で育ち、ど真ん中で差別も利権の構造も見てきた。親の世代はまだまだ差別に苦しんでいた。」と体験談を語った。
とあった。なかなか率直な人物ではある。邪心の有無がホンモノかどうかの決め手だろう。もうすぐわかる。そこで世論調査→「この人、どう?」を実施中。
ちなみに、俺は上滑りの赤もサヨも反日も嫌い。人にレッテルを貼って排外熱を煽るウヨも嫌い。俺こそ真の左翼だと吹いてみた。反日アンケートも実施中。俺は、市井の片隅でひっそりと個の人生を安穏に全うしたいだけなのだ。
アバウトミー質問「在日問題について」を作ったお陰で、いわゆる朝鮮人強制連行説は「神話」のような感じがしてきた。その根拠となる数字を転載・記録しておく。
「終戦時の在日人口は約200万人であり、そのうち移送計画による労働者は32万人に過ぎない。占領軍の命令によって日本政府は引き揚げ船を準備し、運賃無料、持ち帰り荷物制限230キロまでという条件で帰国させた。昭和21年末までに約140万人が朝鮮に帰っていき、自分の意志で残留を希望した約60万人が日本にとどまった。」http://mirror.jijisama.org/zainiti_raireki.htm#kikokuzumi
ちなみに、西岡力という人(拉致問題で活躍)は神学的には聖書の記述を歴史的事実としてそのまま信じるファンダメンタリスト教団に属するキリスト者であるようだ。
また、サヨウヨ世論の反応を見るべく朝鮮人強制連行説は「神話」か?質問を作成した。
正しい歴史的事実の定着を。その上でのサヨで俺はありたい。
「地方で暮らすメリットとデメリットは?」質問の画像をつけるべくネット検索したら「日本列島改造論」の結びの次のような言葉に出会った。
人口と産業の大都市集中は、繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし、この巨大な流れは、同時に、大都会の2間のアパートだけを郷里とする人びとを輩出させ、地方から若者の姿を消し、いなかに年寄りと重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の100年を切りひらくエネルギーは生まれない。かくて私は、工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進することにした。
手段として道路・新幹線という土木建築事業に頼るという時代は過ぎたけれど、「人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる“地方分散”を推進」することは今でも正しい。地方の疲弊は明日の都会の衰退、日本滅亡である。
日本カリスマ党は農林水産業復興と地方の若者税制優遇を主張する。キャッチは「年寄りは早く死んで下さい、国のため。でも、自分だけは元気で長生きするぞ。だから若者にゴマスルぞ」である。
ついでに、国・自治体の借金帳消しの秘策→金持優遇永久債発行あり。
(1)創価学会の基本的数字を把握できた←創価学会がらみの質問が盛り上がらない理由
ネット検索で「一応信頼」できそうな数字をまとめてみました。
・信者数は300万人程度
・寄付収益は年間3000億円(非課税)か
・収益収益(優遇軽減、聖教新聞・墓地販売等)が年間1000億円か
・合計すると年間所得は少なくとも4千億円。ちなみに、トヨタが一兆円、学会はホンダ4千億と同程度の儲けがあることになります。
・資産は不動産9兆円と1兆の流動資産
http://mizushima-s.pos.to/lecture/2004/autumn/08/0003.htm
(2)「在日は日本に帰れ」と思う人
在日日韓国・朝鮮人のほとんどが日本への不法入国者。だから当然、南北朝鮮へお帰り願います。
一応、数字を挙げて反論したけれど。
在日の人数は約60万人(http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9C%A8%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%83%BB%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA&oldid=17961278)と云われています。
一方、入管統計によると韓国・朝鮮系の不法滞在者は56,023人(http://www.moj.go.jp/PRESS/010413-1/010413-1.html)ということです。
以上を信じると「在日韓国・朝鮮人のほとんどが日本への不法入国者」というのは言い過ぎでしょう。
(3)そして、中国・韓国・北朝鮮は既知害だと言う人。
彼らは話し合いに徹する日本人とは違い
常に非合法手段(殺人・拉致・強姦 etc.)をちらつかせて恫喝しますから。
何とかしようよ、池田大作さん。これまでの罪滅ぼしのためにも。
アバウトミーのいくつかの質問から駒が出てしもた→日本カリスマ党宣言。
基本軸は(1)反帝(2)自由主義(反スタ)(3)多元主義(4)社会的共通資本重視(これがホントのリベラル)。外交は嫌米・嫌中・親ロASEANその他。とりあえずの組織は共産党、公明党を解体させて統合乗っ取り。そいで名前は日本カリスマ党。最終的には天皇制を廃止して雅子さんを救えをスローガンにする。
基本軸の詳細はいつもの俺の新左翼要件参照。党名はカリスマとは何か?から命名。
さて、アホウは何人いるやろか。期待中。
※来週、共産党が二人来宅予定(町内の懸案関連)。メールアドレス頂戴したらこの記事、送ってやろう。
エラソーに「西田幾多郎×永井均」なんかを書いたけれど、では、西田哲学をどこまで理解しているかというと相当に心許ない。例えば、西田の「行為的直観」という概念である。西田は行為的直観を次のように規定している(藤田正勝「西田幾多郎」より孫引き)。
我々は行為によって物を見、物が我を限定すると共に我が物を限定する。それが行為的直観である。
これだけの簡潔な文章では何を言っているかわからない。これを(1)行為によって物を見と(2)物が我を限定すると共に我が物を限定という二つに分解して考えよう。
(1)行為によって物を見るとはどういうことか
西田の出発点は純粋経験である。純粋経験は「色を見、音を聞く刹那」まだ私は存在しない。主客未分の状態。と俺は書いたけれど、もっとわかりやすい記述を見つけたので転載させてもらう。西田幾多郎の「行為的直観」―森田療法的アプローチからの分析―@大谷孝行からの転載(これは必読。俺の駄文より余程「行為的直観」が理解できる)。
「純粋経験」とは、我々が何らかの反省を加えたり、判断によって対象を把握しようとする以前の、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」状態である。「物我相忘じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみ」であるのが純粋経験の境地である。
西田の「純粋経験」は、森田療法で言う「なりきる」という事態と同一と考えてよい。
要するに、「色を見、音を聞く刹那」=没我の状態、すなわち、対象を捉えてはいるが分析的思考が始まる前の状態、それが純粋経験である。西田は全ての実在を純粋経験から説明したいとして「善の研究」を書いた。
ところが、純粋経験は「色を見、音を聞く刹那」、すなわち、受け身で物を「見る」ということに止まっている。われわれは世界の外に立って世界を眺めているのではなく、物との必然的な関わりの中に立っている。身体をもち、行為する、まさにそのような人間のありよう(藤田正勝「西田幾多郎」)が純粋経験では捉えきれていない。西田はそう、考えたのである。それが、行為によって物を見るということだ。
下世話な表現をすると「単に見るだけでは済まないでしょ、見たらやる気になるだろうし、そもそも、やる気で見てるでしょ」ということだ(よからぬ想像をすればワカリヤスイ)。見ることとやる気とは一体、これを行為的直観と呼ぶのである。
(2)物が我を限定すると共に我が物を限定するとはどういうことか
実在を説明する基礎を純粋経験ではなく行為的直観に置くという転換は、行為する身体を歴史的社会的に捉えるという転換をもたらした。藤田正勝「西田幾多郎」から西田を孫引く。
私が此に身体というのは単に生物的身体をいうのでなく、表現作用的身体をいうのである。歴史的身体を意味するのである。
端的に言うと、行為する私は生物的私ではなく、歴史的社会的私。私の行為は歴史や社会の中で紡がれた行為ということだ。これだけではわかりにくいだろうから、西田幾多郎の「行為的直観」―森田療法的アプローチからの分析―@大谷孝行の記述を借用転載させてもらう。
「行為的直観」が「純粋経験」の立場と異なる最大の特徴は、前者が人間存在の根源的な社会性と歴史性を明らかにしようとしている点に求められるのである。
人間存在を社会性と歴史性において捉えること、つまり時間的にも空間的にも関係性の網の目として捉えることは、人間を具体的実相で捉えることであり、又、自己の閉鎖性・孤立性を打ち破ることでもある。西田の「行為的直観」にあって「純粋経験」にはない視点、それは人間を歴史性と社会性において把握しようとする視点である。単に一個人の無我夢中、なりきっているという心理状態を描くだけではなく、自分の存在そのものが根源的に帯びている歴史性、社会性を自覚することである。人間を社会内存在、歴史内存在として捉える立場からは、個人の孤立的な営みはすべて抽象的な一断面として捉え返されることになるだろう。
やる気で物を見、見てやる気になった俺は孤立した俺ではない。時間的にも空間的にも関係性の網の目の中でやる気になっているのだ。物が我を限定する世界の中にあり、同時に、我が物を限定し世界を作り出すということだ。行為・身体を純粋経験に付加することにより西田は、世界内存在であり同時に世界を変革する人間の歴史性社会性を実在を説明する基礎として据えたのである。
「人が経験するのではない。経験が人をつくるのである」という西田の言葉はこうした歴史性社会性を踏まえると理解が深まるし、俺の「心は社会的現象(「私」=身体(物理的化学的現象)+心(社会的現象)」というのもこれにつながっていたのかと自画自賛したい。
かくして、俺は、行為的直観を完璧に理解したぞ。大森荘蔵の立ち現れ一元論なんか行為的直観の焼き直しにすぎないではないか、野矢茂樹君。
※荒谷大輔「西田幾多郎-歴史の論理学」が面白そうだ。いろいろな西田論の中でもようやく「絶対矛盾的自己同一」や「絶対無」といった奇妙な概念に、了解可能な枠組みを与えてくれた。ラカンの現実(界)の議論を経由するのは有効な通路ではないかと思う。ということである。図書館にリクエスト済み。
BSで放送していた「カッコーの巣の上で」を観た。
刑務所の強制労働から逃れるため精神異常を装ってオレゴン州立精神病院に入ったマクマーフィは、そこで行われている管理体制に反発を感じる。彼は絶対権力を誇る婦長ラチェッドと対立しながら、入院患者たちの中に生きる気力を与えていくが……。
この手の映画、あんまりタイプではないのだが(シンプルなアクション映画が俺は気楽で観やすい)、「60年代の精神病院を舞台に、体制の中で抗う男の姿を通して人間の尊厳と社会の不条理を問う」という大上段のテーマを振りかざした映画なんだろうかという疑問が湧き、最後まで観てしまった。
というのは、ルイス・フレッチャー(初めて名前を知った)演ずる婦長ラチェットが妙に生々しく肉感的に感じたからだ。絶対権力を誇る管理体制の象徴に似つかわしくないと思ったからだ。
この(肉感的と俺が勝手に感じる)婦長、全く笑わない。患者に対する一片の同情心も見えない。
脱走を試みた主人公(ジャック・ニコルソン)が引き起こした事件のあおりでマザコン青年患者が自殺してしまい、それに怒った主人公が婦長の首を絞めて(未遂)、映画のラスト近くで首にギブスをはめた婦長がようやく(引きつった)笑顔を患者たちに向けるシーンが出てくる。
「人間の尊厳と社会の不条理を問う」などという観念的なテーマではなく、この笑わない婦長が、なぜ(引きつりながらも)笑うようになったかがテーマではないのかなあ。首を絞められるという恐怖経験から防衛表情としての笑いを浮かべるようになったのか、それとも、少しは患者に同情心や共感を覚えるようになったのか、映画は全く手がかりを与えてくれない(製作者はテーマと考えなかったのだろう、多分)。
では、なぜ婦長は笑わなかったのだろう。
俺なりに勝手に考えてみると、彼女は、自分は正しい、患者たちのためにも同情や共感は不要で病院の治療方針に従っていればそれが患者のためになると信じていたのだろう。
正義と真実が自分の側にあると信ずると人は、相手に共感や同情を感じない。だって、相手は敵だもん。相手は操作の対象にすぎない。自分が相手によって操作されることなんか夢にも思わない。そこでは共感も同情も不要である。
こういうのを理性の暴走と呼ぶ。せめて、正義と真実は一致しないということぐらいは思って欲しいなあ。自分に正義はあるけれど、真実は掴んでいないかもしれない。その謙虚さがあれば、お互いに人間、相手によって教えられることもある。だから、まずは笑顔で接して相手に心を開かせたい、その上でほんとうのことを知りたい、となるのである。
ということで、「人間の尊厳と社会の不条理」以前に理性を笑顔で補完するというテーマがある。理性を通せば問題解決という単純な話は無い。人生、まずは笑顔とちゃいまっか。
R.シュトラウス「死と変容」をテレビで聴いていっぺんにファンになってしもうた。
熱い思いをきっちりと表現する、オーケストラを的確にグリップして響かせる。いい指揮者だと思う。難渋な「死と変容」がわかりやすく聴こえるのだ。HDDに常駐させて繰り返し鑑賞中。
ちなみに「たつの雑談」という氏の閉鎖してしまったブログにファンがコメントいまだ継続中。
ところで、ここ数日ばたばたしていたので自分のブログも、ちと敷居が高かった。音楽ネタが矢張り再開第一弾であったか。
最近のコメント