週刊ウィトゲンシュタイン
アバウトミーで知ったねこてつさんという方が週刊ウィトゲンシュタインという記事を書いていらっしゃる。先日知ったばかりでちょっとずつ拝読中。その中で、今日読んだ記事「私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する」の解読が秀逸だったので勝手一部転載させてもらう。
私たちは言葉を使って考える。ところで、考えることのできないも
のは、考えられない。だからそれが言語の限界だ、というのではなく
て、ウィトゲンシュタインは「世界の境界だ」と言うのです。ここで
またまた ? …
実例をあげて考えてみましょう。「無」を考えることは可能か。
「無」というと、空間に何もない状態を思い浮かべちゃいますね。
でも、それでは完全じゃない。空間が存在している以上それは「無」
とはいえない。では、その空間を取り払ってみると、「無」は限りな
い小さな一点に収斂して、消え失せる。それでおしまい。それ以上、
考えられない。絶句。これが言語の境界ってやつなんです。
記事はまだまだ続くのだけれど、要するに「無といっても空間が存在することが前提だろう。空間を取り払えば無だって消失するではないか。だから、私の言語の境界が、私の世界の境界を意味するんだよ」ということだと理解した。
俺の世界的微小「論考」入門では、このあたりのことをこう書いている。
要するに「論考」は、あなたがあなたの脳内につくる世界のモデルに関して、どこまでが万人共通でどこからが存在論的経験と価値観の相違に応じて異なるのかを示してくれる。人はどこまで解りあえるかという問題提起の書だったのである。だから、語りえぬものについては、沈黙しなければならない。言い換えると、語りうるものについては明晰に語らねばならないのである。
思考は言語に頼らなくては不可能。そして思考は脳内に世界モデル(記号世界)をつくる。そしてまた、私たちは私たちそれぞれの記号世界に照らし合わせて事実世界を理解しようとする。だから、「私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する」のである。言い換えると、経験は言語で限界づけられているということである。
ああ、でもこれは事態の反面でしかないなあ。経験は言語で限界づけられている、すなわち、物(言語)が我を限定するけれども、他方で、我が物(言語)を限定する。つまり、
物が我を限定する世界の中にあり、同時に、我が物を限定し世界を作り出すということだ。行為・身体を純粋経験に付加することにより西田は、世界内存在であり同時に世界を変革する人間の歴史性社会性を実在を説明する基礎として据えたのである。
ということで、やっぱり、俺は西田幾多郎に戻るのである。
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