婦長はなぜ笑わなかったのか
BSで放送していた「カッコーの巣の上で」を観た。
刑務所の強制労働から逃れるため精神異常を装ってオレゴン州立精神病院に入ったマクマーフィは、そこで行われている管理体制に反発を感じる。彼は絶対権力を誇る婦長ラチェッドと対立しながら、入院患者たちの中に生きる気力を与えていくが……。
この手の映画、あんまりタイプではないのだが(シンプルなアクション映画が俺は気楽で観やすい)、「60年代の精神病院を舞台に、体制の中で抗う男の姿を通して人間の尊厳と社会の不条理を問う」という大上段のテーマを振りかざした映画なんだろうかという疑問が湧き、最後まで観てしまった。
というのは、ルイス・フレッチャー(初めて名前を知った)演ずる婦長ラチェットが妙に生々しく肉感的に感じたからだ。絶対権力を誇る管理体制の象徴に似つかわしくないと思ったからだ。
この(肉感的と俺が勝手に感じる)婦長、全く笑わない。患者に対する一片の同情心も見えない。
脱走を試みた主人公(ジャック・ニコルソン)が引き起こした事件のあおりでマザコン青年患者が自殺してしまい、それに怒った主人公が婦長の首を絞めて(未遂)、映画のラスト近くで首にギブスをはめた婦長がようやく(引きつった)笑顔を患者たちに向けるシーンが出てくる。
「人間の尊厳と社会の不条理を問う」などという観念的なテーマではなく、この笑わない婦長が、なぜ(引きつりながらも)笑うようになったかがテーマではないのかなあ。首を絞められるという恐怖経験から防衛表情としての笑いを浮かべるようになったのか、それとも、少しは患者に同情心や共感を覚えるようになったのか、映画は全く手がかりを与えてくれない(製作者はテーマと考えなかったのだろう、多分)。
では、なぜ婦長は笑わなかったのだろう。
俺なりに勝手に考えてみると、彼女は、自分は正しい、患者たちのためにも同情や共感は不要で病院の治療方針に従っていればそれが患者のためになると信じていたのだろう。
正義と真実が自分の側にあると信ずると人は、相手に共感や同情を感じない。だって、相手は敵だもん。相手は操作の対象にすぎない。自分が相手によって操作されることなんか夢にも思わない。そこでは共感も同情も不要である。
こういうのを理性の暴走と呼ぶ。せめて、正義と真実は一致しないということぐらいは思って欲しいなあ。自分に正義はあるけれど、真実は掴んでいないかもしれない。その謙虚さがあれば、お互いに人間、相手によって教えられることもある。だから、まずは笑顔で接して相手に心を開かせたい、その上でほんとうのことを知りたい、となるのである。
ということで、「人間の尊厳と社会の不条理」以前に理性を笑顔で補完するというテーマがある。理性を通せば問題解決という単純な話は無い。人生、まずは笑顔とちゃいまっか。
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