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2008年2月27日 (水)

西田幾多郎の真実

Photo 図書館で河西善治「西田幾多郎の真実」という本を見つけたので期待して読んだ。「独創的」哲学者の剽窃と戦争協力の構図という副題の「戦争協力の構図」の方は言い古されたテーマだからあまり期待していなかったが、この本の第一章で宮台真司、廣松渉、今村仁らを

社会主義がこけてマルクスがオシャカになって久しいが、このマルクス主義のガラパゴス島ではまだ追善の読経が続いている

と批判した後で

なぜ経験が認識に転化しないこうした信仰告白が繰り返されるのか。
私はこれをシュタイナーの「自由の哲学」にならって、知情意という人間の心的能力における思考(知)と感情との関係の問題として考えてみた。
このことによって、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮澤賢治「農民芸術論綱要」というユートピア(あるいはオルタナティブ)を実現するための思想形成の端緒がつかめると考えたからである。


というところに期待したのだ。つまり、サヨ(旧左翼)が抱えていた、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という理念ないしエエカッコシイと利己心(そこから来る権威主義、岩波朝日文化を想起せよ)との分裂を知情意という人間の心的能力における思考(知)と感情との関係の問題として解明してくれるのではないかと期待したのである。

ところがどっこい、続く章では、西田の純粋経験はシュタイナーの「ゲーテ的世界観の認識論的要綱」からの剽窃とか(ウィリアム・ジェームズからかなりの影響を受けているというのは以前から言われていること)西田が戦争協力文章を自ら進んで書いたのだという表層的なことばかりで失望した。
旧左翼(心情左翼と呼んだ方が適切か)の理念と利己心との相克はシュタイナーを持ち出すまでもなく知情意の分裂(知識では同胞愛、情では利己心)ということで解決済みなのかなあ。機会があればシュタイナー(入門書、たぶん)を研究してみよう。

そんなこんなで欲求不満解消するべくアバウトミーに質問「サヨのここが嫌い」してみたけど、回答の集まりが悪い。アバウトミーって心情左翼の純情人が多いようである。

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