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2008年2月 9日 (土)

純粋経験から行為的直観へ

Photo エラソーに「西田幾多郎×永井均」なんかを書いたけれど、では、西田哲学をどこまで理解しているかというと相当に心許ない。例えば、西田の「行為的直観」という概念である。西田は行為的直観を次のように規定している(藤田正勝「西田幾多郎」より孫引き)。

我々は行為によって物を見、物が我を限定すると共に我が物を限定する。それが行為的直観である。

これだけの簡潔な文章では何を言っているかわからない。これを(1)行為によって物を見(2)物が我を限定すると共に我が物を限定という二つに分解して考えよう。

(1)行為によって物を見
るとはどういうことか

西田の出発点は純粋経験である。純粋経験は「色を見、音を聞く刹那」まだ私は存在しない。主客未分の状態。と俺は書いたけれど、もっとわかりやすい記述を見つけたので転載させてもらう。西田幾多郎の「行為的直観」―森田療法的アプローチからの分析―@大谷孝行からの転載(これは必読。俺の駄文より余程「行為的直観」が理解できる)。


「純粋経験」とは、我々が何らかの反省を加えたり、判断によって対象を把握しようとする以前の、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」状態である。「物我相忘じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみ」であるのが純粋経験の境地である。
西田の「純粋経験」は、森田療法で言う「なりきる」という事態と同一と考えてよい。


要するに、「色を見、音を聞く刹那」=没我の状態、すなわち、対象を捉えてはいるが分析的思考が始まる前の状態、それが純粋経験である。西田は全ての実在を純粋経験から説明したいとして「善の研究」を書いた。

ところが、純粋経験は「色を見、音を聞く刹那」、すなわち、受け身で物を「見る」ということに止まっている。
われわれは世界の外に立って世界を眺めているのではなく、物との必然的な関わりの中に立っている。身体をもち、行為する、まさにそのような人間のありよう藤田正勝「西田幾多郎」)が純粋経験では捉えきれていない。西田はそう、考えたのである。それが、行為によって物を見るということだ。

下世話な表現をすると「単に見るだけでは済まないでしょ、見たらやる気になるだろうし、そもそも、やる気で見てるでしょ」ということだ(よからぬ想像をすればワカリヤスイ)。見ることとやる気とは一体、これを行為的直観と呼ぶのである。

(2)物が我を限定すると共に我が物を限定するとはどういうことか

実在を説明する基礎を純粋経験ではなく行為的直観に置くという転換は、行為する身体を歴史的社会的に捉えるという転換をもたらした。藤田正勝「西田幾多郎」から西田を孫引く。

私が此に身体というのは単に生物的身体をいうのでなく、表現作用的身体をいうのである。歴史的身体を意味するのである。

端的に言うと、行為する私は生物的私ではなく、歴史的社会的私。私の行為は歴史や社会の中で紡がれた行為ということだ。これだけではわかりにくいだろうから、西田幾多郎の「行為的直観」―森田療法的アプローチからの分析―@大谷孝行の記述を借用転載させてもらう。

「行為的直観」が「純粋経験」の立場と異なる最大の特徴は、前者が人間存在の根源的な社会性と歴史性を明らかにしようとしている点に求められるのである。
人間存在を社会性と歴史性において捉えること、つまり時間的にも空間的にも関係性の網の目として捉えることは、人間を具体的実相で捉えることであり、又、自己の閉鎖性・孤立性を打ち破ることでもある。西田の「行為的直観」にあって「純粋経験」にはない視点、それは人間を歴史性と社会性において把握しようとする視点である。単に一個人の無我夢中、なりきっているという心理状態を描くだけではなく、自分の存在そのものが根源的に帯びている歴史性、社会性を自覚することである。人間を社会内存在、歴史内存在として捉える立場からは、個人の孤立的な営みはすべて抽象的な一断面として捉え返されることになるだろう。


やる気で物を見、見てやる気になった俺は孤立した俺ではない。
時間的にも空間的にも関係性の網の目の中でやる気になっているのだ。物が我を限定する世界の中にあり、同時に、我が物を限定し世界を作り出すということだ。行為・身体を純粋経験に付加することにより西田は、世界内存在であり同時に世界を変革する人間の歴史性社会性を実在を説明する基礎として据えたのである。

「人が経験するのではない。経験が人をつくるのである」という西田の言葉はこうした歴史性社会性を踏まえると理解が深まるし、俺の「心は社会的現象(「私」=身体(物理的化学的現象)+心(社会的現象)」というのもこれにつながっていたのかと自画自賛したい。

かくして、俺は、行為的直観を完璧に理解したぞ。大森荘蔵の立ち現れ一元論なんか行為的直観の焼き直しにすぎないではないか、野矢茂樹君

荒谷大輔「西田幾多郎-歴史の論理学」が面白そうだ。いろいろな西田論の中でもようやく「絶対矛盾的自己同一」や「絶対無」といった奇妙な概念に、了解可能な枠組みを与えてくれた。ラカンの現実(界)の議論を経由するのは有効な通路ではないかと思う。ということである。図書館にリクエスト済み。

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