右であれ左であれどわが祖国桜通りに雨降りつづく
雨の中、桜通りの写真を撮るまでの根性は我に無し。歌を得たきっかけは質問:「戦争は悪だ」は真理?道理?それとも論理?を作成したこと。「価値観外交は国益になるか?」(安倍政権が倒れて質問の意味半減)とか「価値観教育は正しいか?」(初等教育では真理を教えるのは避けて、論理・道理を徹底するべし)という質問が控えています。右であれ左であれ我が祖国。
雨の中、桜通りの写真を撮るまでの根性は我に無し。歌を得たきっかけは質問:「戦争は悪だ」は真理?道理?それとも論理?を作成したこと。「価値観外交は国益になるか?」(安倍政権が倒れて質問の意味半減)とか「価値観教育は正しいか?」(初等教育では真理を教えるのは避けて、論理・道理を徹底するべし)という質問が控えています。右であれ左であれ我が祖国。
「日本の民度の低さは誰のせい?」質問でのコメントラリーのおかげで
民度=教養+節度+情緒
という定義式ができた。ここに教養とは公民意識の確立=百姓根性(お上は自分たちを収奪するもの、その代わり、たかったりすがったりするもの)から抜け出すことを指す。そして、節度とは俺のお気に入りの「おいあくま」(怒るな威張るな焦るな腐るな負けるな)である。以上、今日の朝ネットの成果を記録しておく。
※写真は鎌倉瑞泉寺の庭で撮影した諸葛菜。三国志の諸葛孔明(しょかつこうめい)が出陣のさきざきでこの種子をまき、食糧となるよう栽培したことからの名だそうだ。花大根とも呼ばれるが、大根の花ではないから注意。「諸葛菜不安をもつて安とせむ」河原枇杷男。
民草のひとりなりけり諸葛菜庭の一隅むらさきの映ゆ
花大根人恋しさもうすれきて
アバウトミーでお喋りしていて「日本の民度の低さは誰のせい?」という質問(選択肢にも工夫を凝らしたつもり)をつくってしまった。早速、回答があってレスしようとしたら次のような本気ジョークとなってしまった。
「第二次世界大戦の最中の軍事政権」を生んだのは明治天皇制帝国主義であり、明治天皇制を作り出すにあたって革命ではなくクーデタしか出来なかったこの国の政治風土にそもそも問題があると思っています。
お上が人民を収奪し人民はお上に群がりたかる政治風土、それは江戸幕藩体制が作り出したものです。
ほんとうやったら、秀吉が天皇になるべきやった。あそこで絶対君主制国家が出来ておったらアジアは西洋列強に侵略されなんだと本気のジョークです。
この質問、国粋系の方の回答を実は期待しているのだが、さて、回答頂けるやら。
※写真は鎌倉で見かけた白いタンポポ。西国では白いタンポポは珍しくないそうである。
灰色の目としゃがれた声、冷やかな笑顔をトレードマークに、主にギャング映画での非情な殺し屋、戦争映画での冷徹で人望のない指揮官役などで持ち味を発揮した個性派。享年93歳、昨日の日経夕刊によると「脊椎を骨折、容体が悪くなっていた」とのことだ。ネットで訃報ニュースあんまり流れてない。過去の人ということなら残念。
昨日、彼が検事役をこなした「ニュールンベルク裁判」観たばかりだった。この映画、「シンドラーのリスト」(アバウトミー諸氏の感想はこちら)など足元にも寄れない文句なしの第一級の名画だ。スペンサー・トレイシー他の豪華キャスト(マレーネ・ディートリッヒの映画を初めてきちんと観た)で、歴史における個人の責任について考えさせてくれる。ナチスに批判的ながらも国家と民族のために協力した法律家の責任を問うのだ。「あなたがしたことが始まりだった」というのが最後に出てくる記憶するべき名台詞である。冥土の土産DVD作成済み。
ちなみに、監督のスタンリー・クレーマーについても見つかったネット情報はこの程度。往年の名監督なのに。
「共産主義失敗の原因は何だったか?」は論点整理ができてアバウトミーに質問をあげた。そこで、今度は「資本主義破綻の想定できる理由を述べよ」である。
まず、どんな破綻を想定できるかを考えると(1)恐慌(2)戦争(3)革命(テロ)(4)資源枯渇ということになろうか。以下、それぞれについて検討する。
(1)恐慌:市場経済の行き過ぎ
思い浮かぶのは1929年恐慌である。好景気好況株高の後に一転して不景気不況株暴落、つまりはバブル破裂だ。市場経済であるからはバブル(市場の行き過ぎ)は避けられない。そこで行き過ぎを制御するための政府の役割が必要となる。増減税、公共投資、金利等金融政策など1929年恐慌を踏まえた反省(ケインズ経済学)があってかつての自由放任ではなくなった。それでも、現時のサブプライムローン問題で現れたように市場、特に金融部門の行き過ぎは不可避と見るべきだろう。
(2)戦争:帝国主義国家の暴走
1929年恐慌は欧州でナチ、ファッショを生みアジアで日本帝国主義のアジア侵略、また、アメリカも結果的に戦争による経済活性化をもたらした。また、イラク戦争が石油利権、ドル覇権にからむ米帝国主義戦争と評価することも可能だ。このように資本のあくことなき利潤追求が国家権力と結合すると帝国主義戦争を引き起こすとなる。これを回避するための枠組みとして国連があるが、国連が弱体なことは周知の事実である。
(3)革命(テロ):市場経済敗者による暴力的抵抗
経済のグローバル化は国内的国際的に格差拡大につながる。格差が耐えられないほどに拡大すれば貧者・敗者は暴力的に抵抗しようとする。それが革命・テロだ。これを避けるためにセーフティネット構築等全体最適を図ることが必要となるが、これは政府及び国家の国際的連携を必要とするだろう。ある程度の平等を維持すること、すなわち、貧困との戦いが政府の役割となる所以である。ちなみに、犯罪国家北朝鮮金王朝を倒すことも広い意味での貧困との戦いである。
(4)資源枯渇:自然的制約を無視する資本の運動
人間のための富の追求手段として考案された資本制度(株式会社)が、当初目的から離れて自立的な運動を継続した結果、人間のための富をもたらさない。善良な人間が資本に使われる労働者として真面目に反人間的な商売に勤しむ。これがマルクスが発見した疎外という現象である。そして、上記(1)、(3)は市場経済・資本の行き過ぎ=疎外の結果と見ることができ、(2)帝国主義戦争は疎外の極大化(疎外の調整弁となるべき政府を資本が乗っ取った結果の戦争)と言えるだろう。
恐慌も帝国主義戦争も革命(テロ)もなんとか回避したり被害を極小化できたとしても、資源は有限である。部分最適しか追求しない資本の運動から有限な資源と環境を守らねばならない。そうした全体最適を図る主体(政府?)を資本の運動に抗して育てることが必要である。
こうしてみると、資本主義破綻は資本による疎外との戦いである。そしてその戦いの主要な担い手は賢い政府だ。だが、賢い政府はどうやったら作れるのだろう。政治家は選挙に疲弊し権力闘争に明け暮れるものだし、人民はパンとサーカスに忙しい。
われわれに与えられた手段は市場経済(資本制度)と民主主義(投票民主主義)と思想言論の自由市場しかない。そして、投票民主主義で賢い政府ができる保証はない。とすれば、期待がかかるのは思想言論の自由市場である。
以上、かねがね俺が言い続けてきた新左翼の要件が、(1)反帝国主義(資本による政府乗っ取りを防ぐ)(2)自由主義(とりわけ思想言論の自由を維持拡大する)(3)多元主義(共産主義・ファシズムの亡霊と戦う)(4)社会的共通資本の重視(資本がエネルギー・食糧・水・環境を食い潰すのを防止する)として具体化できた。こんな念仏でも一人ぐらいは読んでくれるだろう。それが思想言論の自由市場を信じるということである。
ベルリンの壁崩壊1989年から思えばもう20年も経つんだあ。いったい、共産主義って何だったんだろう。今でも共産主義者を自称する人は共産主義「失敗」の原因は何だったか?きちんと分析・評価・総括すべきだろう。その総括もせずに共産主義者を名乗るのは知的思想的怠惰以外の何物でも無い。そこで俺がなり代わってエラソーに分析することにする。以下、失敗原因と思われるものを経済・政治・思想・組織の4分野別に考える。
(1)経済原理:統制経済の失敗
かつてのソ連経済に典型的に現れたように、国家に経済を統制できる能力は無かった。アダム・スミスは依然として正しく、市場経済=見えざる手に委ねるのが経済合理性・効率性実現の唯一の道なのだ。
もっとも、社会的共通資本まで神の手に委ねるのは現実的でない。特に、食糧・エネルギー・水・環境。石油資源の枯渇や世界的貧困(食糧問題)を思うと国家乃至国家連合更には世界政府による政策的介入無しでは人類存続も危ぶまれる。
(2)政治原理:一党(プロレタリア)独裁の失敗
これは(1)より小さな原因に見える。なぜなら、ソ連は経済より政治の自由化を急いで崩壊したのに対し中国は政治の独裁体制を維持したままで経済自由化でなんとか存続しているからだ。要するに、人民にとっては政治より経済。食えてるうちは多少の独裁でも文句を言わないからだ。
封建体制が長かったり民度が低い国の近代化にあたって開発独裁はある程度必須だ。明治維新日本も言うならば天皇制開発独裁だった。そして、敗戦後「民主主義」日本もバブル崩壊までは自民党利権開発独裁に政治的合理性があったと言える。自社55年体制崩壊後の政治的混迷は開発独裁に代わる政治原理を発見できていないということかもしれない。
(3)思想原理:マルクスレーニン真理一元主義の失敗
我が敬愛するショスタコーヴィチの音楽まで統制、弾圧するなんてソ連はサイテーの文化国家だった。政治原理は開発独裁であっても思想言論文化は自由市場というスタイルもあり得たかもしれない(原理的には矛盾だけれど)。経済、文化は自由化、政治は国家崩壊による争乱を免れるべく多極化をソフトに排除するというのが、中国共産党が採るべき賢明な道である(その道を目指しているだろう多分、無理だろうけど)。
ちなみに、マルクスレーニン真理一元主義は西洋近代プラトニズムの必然的な行き着く先だった。最早、一元主義に未来は無い。時代は多元主義を要請している(「真理より道理、実在より現象」参照)。
(4)組織の問題:権力は必然的に腐敗する
権力に腐敗は必然。中国共産党が上記の賢明な道を歩めたとしても、汚職腐敗による権力の内部崩壊の可能性は残る。日本の開発独裁の最後の砦=官僚制、公的部門の改革が必要な理由もここにある。キャリアシステム及び天下りから手をつけよ。
以上を整理すると、ソ連共産主義の失敗は(1)~(4)の全てが原因、とりわけ(3)思想原理:マルクスレーニン真理一元主義の失敗が大きい。この点、実事求是、百家争鳴の経験がある中国共産党(結構、プラグマティズム、功利主義)は一見しぶとそうだが、(4)組織の問題:権力は必然的に腐敗するが弱点で、思想言論文化の自由市場をつくれなくていずれ倒壊する。
そして、日本は、公的部門改革と多元主義文化構築及び人口減少を経て世界のトップを走る中規模経済・文化大国になるだろう(と思いたい)。日本の未来は(1)反帝国主義(2)自由主義(3)多元主義(4)社会的共通資本の重視と共にあるのである。
以上、(1)「共産主義失敗の原因は何だったか?」(2)「資本主義破綻の想定できる理由を述べよ」です。まず、ブログで論点整理してからアバウトミーするつもりです。(1)は中国共産党独裁体制の賞味期限切れはいつかという問題にもつながるように思っています。
資本主義破綻の想定理由は社会的共通資本破壊(エネルギー・水・食糧・環境)だろうなあ。ちなみに昨日の日経夕刊コラムに伊藤忠丹羽会長が「20世紀は石油とキリスト教の世紀、21世紀は水とイスラムの世紀」と書いてます。なかなかの知識人みたいやなあ。
構想の第一弾であった。殺戮の二十世紀を過ぎて来しわれらの未来われの晩年
鎌倉アルプスを歩いた。天園ハイキングコース、建長寺から登って瑞泉寺に降りる経路である。好天にめぐまれて鶯を聞きながらの5キロであった。そういえば今年、多摩ニュータウンでは鶯を聞かない。去年はあれだけ鳴いたのに。カラスに駆逐されたのだろうか。
なぜ、おかめ桜なのか気になったので検索したら次のような説に出会った。
フジザクラと寒緋桜との掛け合わせで、イギリスの研究所で誕生しました。なぜ「おかめ」なのかの名前の由来は詳しくはわかりませんが、イギリスの研究者がいかにも日本風な名前をと考えるにあたり、「おかめ」になったと言われています。「(日本風)かわいらしい=おかめ」と思いたいところです。
春風に浮かぶ富士かや霞かや
遠くに浮かぶ富士を見てもらえるだろうか。実景ではもっとはっきりくっきり見えた。俺のカメラ腕の限界問題と思いたい。
ところでこの鎌倉散歩、由比ガ浜パーク&ライドを利用した。由比ガ浜駐車場に車をとめてバス一定区間内乗り放題に駐車場4時間セットで1600円。鎌倉散歩に最適である。
葉山お気に入りのパン朝食(ブレドール:超美味焼きたてパン食べ放題だが時節柄1200円に値上げされていた)を食べて昼食抜きの土曜日葉山鎌倉プランである。
侘助や放蕩の果て生きてをり
最近になってようやく椿と侘助の区別ができるようになった(と思う)。全開していない花が特徴なのだ。
侘助や障子の内の話し声 高浜虚子
侘助のひとつの花の日数かな 阿波野青畝
侘助や些事もまた身のときめきに 河合照子
侘助をもたらし活けて通ひ妻 石田波郷
侘助は早咲きがあるので俳句では冬の季語となっている。「閑寂な趣が眼目。新境地にも挑戦したい」と「花の歳時記 冬」にあった。写真は先々週、昭和記念公園で撮影。
教えて!gooの質問内容にURL(ブログへのリンク)を書いていたら、個人特定につながる廉で事務局に削除された。自己紹介は全文抹消された。そこで書き直したのが下記。平和主義者たる俺に抗議するつもりは全く無い。
ブログ書いてます。アバウトミーもやってます。自分史は嫌いなんで日記帳として使ってます。もごもご日記もあります。以上、URLを全部に付けたのに個人特定につながる情報の廉で事務局に削除されてしまいました。ほんとにお節介な事務局だなあと思います。でもURLへの引き込みその他目に余る営業行為があるのかなあ。あ、俺もブログへの引き込みセールスしたかったんだ。
ついでに近作、俳句と短歌。
エコとエゴ一字の違ひ菜種梅雨
オキーフの花見て哲学クールベも世界の始原描きけるかも
短歌の方はアバウトミー質問「世界の根源は花である」をクリックして貰わないとほとんど意味不明だろうなあ。
現象の背後に真理も実在もない。現象のこちら側に我々は実在(記号世界)をモデルとして記号化しているのに、それが現象の背後にあるものだと思い込んでいる。同様に、真理は各人の記号世界の最大公約数として構成するものにすぎないのに、それが現象の背後にある本質だと思い込んでいる。
こうした事態をニーチェは誤謬とみなした。「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような、一種の誤謬である。」
これは、マッハの<真理と虚偽>の区別を廃し、<認識と誤謬>という区別を立てたのと軌を一にする(木田元「マッハとニーチェ」)という。フッサール現象学に至る前史としてマッハとニーチェがいた(その背景にダーウィン「進化論」がある)というのがこの本の主張だ。
これを俺のいつもの三層スキーマ(構成主義的唯物論)にあてはめるとこうなる。
価値世界 記号世界 事実世界
真理 論理 道理(スピノザの神)
構成 実在 運動(生成消滅)
そして、荒谷大輔「西田幾多郎~歴史の論理学」(西田をタルスキ、デイヴィドソンに絡めて論じたのがこの本のミソ。でも、真理や実在を現象の背後に設定している形而上学のような気がするなあ)から西田の晦渋な文章を孫引きしよう。
事実の世界は私と汝とが直接に相対し相話すことから始まる、すべて実在界と考へられるものは此に基礎附けられねばならぬ。デカルトのコギト・エルゴ・スムにも、単なる内部知覚といふ如き事を離れて自己の内に絶対の他を見、事実が事実自身を限定するといふ意味がなければならない。
これを俺流にわかりやすく翻訳すると次のようになる。西田もまた現象学を語っていたのである。
真理(価値世界)は過去現在未来の無数の記号世界(私)の最大公約数である。従って、真理の範囲を確定するためには「私と汝」のコミュニケーションが必要となり、実在もまた「私と汝」による基礎付けを要するのである。つまり、「自己の内に絶対の他を見、事実が事実自身を限定する」というのは、このような無数の記号世界の相互限定の働きを言うのである。絶対無とは無数の記号世界の相互限定(最近流行の言葉では創発。つまりは創造)のことである。
ということで哲学はプラトンの呪縛(イデア=真理一元論)から解放された。真理より道理でものごとを語るという常識にようやく立ち戻ったのである。以上、左翼(多元主義)の哲学的基礎付けのつもりである。真理一元論は親の仇なり。
人生象徴詩のつもりなんだけど全くスカやった。ひねりも何にも効いてなく面白くないぞ。
ところで、サンシュユって別名:ハルコガネバナ(春黄金花),アキサンゴ(秋珊瑚)ともいうんだそうだ。秋になる実が美しい。忘れてなければ是非撮影挑戦したい。
日溜まりに支那まんさくの昭和かな
まんさくの中に支那まんさくというのがあるのを昭和記念公園で知った。中国原産。マンサクに較べ花の咲く時期が早く、花に香りがあるのが特徴というのだが、区別は難しい。今まで見たものは、マンサクよりちょっと花が大きい感じがするとのこと。
枯れ葉が残っているのが面白いようで、カメラ人気が集まっていた。
ところで、支那って「しな」と入力してもカナ漢変換してくれない(MS-IMEの場合)。そこまでガードしなくてもと思うのだが。本句の場合、昭和には支那でなくっちゃ。そういえば支那事変と呼んだり十五年戦争と呼んだり、あの戦争の呼称も安定していない。太平洋戦争では支那侵略の事実がすっぽり脱落するので俺は大東亜戦争と呼ぶことにしている。
憧れて今は昔のサユリスト地上のことも夢のまた夢
写真は映画「おはん」市川崑から拝借。この映画の原作者宇野千代のこととか小百合の更なる写真については土曜日日記帳「まるで昼寝でもしたように」を参照のこと。
福寿草自己満足でジコチューで
土曜日の河津桜吟行(8キロ徒歩)に引き続き日曜日は立川昭和記念公園(おお、国営なんだ)へ。ここも園内が広いので3キロは歩いたかな。梅を満喫しサンシュユも撮影し、そして何より収穫は福寿草だった。恥ずかしながらこの花を認識していなかった俺なのだ。
ということで、自己中心で自己満足で自分が好きで好きでタマラナイという自己言及が最近は少しは自己批評という言葉が気に入り始めた。「他者は鏡と思いますか?」あるいは「自己満足は生き甲斐たり得るか?」などという質問を作って一人悦に入っている自己中毒である。
老いてなほ母に意地あり福寿草 加藤静子
妻の座の日向ありけり福寿草 石田波郷
福寿草この子大器の相ありと 水原春郎
丸腰の兜太が行くぞ福寿草 清水哲男
ところで、最近また短歌(駄歌)に復帰。というのも、アバウトミーに毎朝ひとこと代わりに短歌旧作を披露していたのだがネタ切れになって仕方なく詠まざるを得なくなったのだ。
そこで、今朝の一首は「ふと淋し鏡なき朝アバウトミー今日のおのれは笑うているか」だ。この歌、「福井県小浜市のオバマ・フィーバーって」質問でのコメント・ラリーにも「他者は鏡」質問にもリンクしているのでここに記録しておく。
以上、一日一首一句一質問で自己批評を目指すジコチューであった。
河津桜追加の一句一枚。アバウトミーに毎日一首、短歌旧作を掲載していたがネタ切れになったので新作一日一首に変更した。昨日は短歌が出来ず、(いつもの観念的)俳句で代替したもの。河津桜を初桜と呼ぶのは少々抵抗あり(サクラはソメイヨシノという固定観念だけれど)。
人はみななにかにはげみ初桜 深見けん二
わき道の夜半や明るく初桜 千代女
夕空に片あかりせり初桜 田中冬二
旅人の鼻まだ寒し初ざくら 蕪村
写真は河津の踊り子温泉会館の玄関で撮影したもの。昼飯を食おうと思い立ち寄ったが、風呂に入らなくても入館だけで入館料を取られるのでUターンした。隣の蕎麦屋が結構旨かったのでお奨め。
先週末に河津桜吟行してきた。写真は河津桜の原木。カワヅサクラは早咲きオオシマザクラ系とヒカンザクラ系の自然交配種と推定されていて、原木は河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃、偶然発見したものとのことだ。
川沿いにこのように堂々と河津桜並木と菜の花がある。ほぼ往復して8キロ歩いたなあ。
メジロは早春、梅に群がるそうだが、河津桜にも賑やかに群がっていた。以下、俳句写真をもう三枚。
菜の花と河津桜の笑顔かな
祖父譲り相撲が好きで初桜
黄々として菜の花笑ふ伊豆河津
伊豆高原に車を置いて電車で河津まで行った(パーク&ライド)。帰りのホームで「また来年もいらして下さい」とアナウンスしていた。カメラのお陰で視線が豊かになったので8キロも歩けたと感謝である。
昨日の日経「健康情報読み解く」に肝に銘ずべき情報があったので記録しておく。
世界がん研究基金が1997年に出した報告書では肥満によるリスク上昇が確実と判定されたのは子宮体がんだけだったのが、2007年のレポートでは、食道・膵臓・腎臓・大腸・乳房(閉経後)のがんが追加された。肥満は一部のがんに限らず多くのがんに影響することが分かったそうだ。
どうしてそうなのか、病理については触れていないので今日かかりつけの女医さんに訊いてみよう(質問結果→酸化物質が増えるためと聞いた。そこで、ネット検索すると癌(がん・ガン)の予防には活性酸素の対策が重要とあった。さすがは我が主治医)。
日本人男性の三大死因は癌・心臓病・脳血管病だそうだが、俺はこれ以外で死ぬぞと堅く心に決めているのである。
ところで、今日、三月十日は東京大空襲記念日。「三月十日語りし東京人も老ゆ」折原あきの。体は開いても、許しはしないがアメリカとの付き合い方の極意だと最近、思うようになった。
※写真はネットで拾ってきたもの。気に入っているので土曜日もごもご日記壁紙として使用中。
先日、カメラをぶら下げて朝吟行していたら、前から気になっていた樹木を撮っているおじさんがいた。勇気を奮って「おはようございます。この花、なんというのですか」と訊いたら「まんさく」とぶっきら棒に答えてくれた。そうそう、これがまんさくなんだ、と思って翌日の快晴を受けて撮影したのがこの写真だ。
ところが、なかなか句にならぬ。そこで、ネット検索して「金縷梅」の字を拾ったり、「名の由来は、他に先駆けて「先ず咲く」が訛ったものとも、黄色い四弁花が稲の豊年満作を思わせるからとも」にある俳句を参考にしたりして昼飯、昼寝後にふと口について出てきたのが本句だ。俳句はまことに気分である。
今朝の一曲はシューベルト弦楽五重奏曲(死後22年も経ってから初演されたのは、シューベルトの内気で引っ込み思案で、もっぱら作曲に没頭さえしていれば満足、という性格にも原因がありそうとのこと@ベルクSQ。この曲を聴くと懐かしさの感情に満たされる。そして、花杏はもう少しで満開だ。
昨日、ショスタコ8番を聴いていて「これはベルクと違う、タコには物語がある」と思った。そして今朝ネット逍遥の後の音楽にゴールトベルク変奏曲@シュタットフェルトを選んで最初のアリアに浸っていると「おお、バッハは結晶やんかあ」と気づいた。そこで、かねて用意のモーツァルト=記号の音楽(グレン・グールド)と合わせると俺のお得意、三大噺「物語、結晶、記号」ができあがった。そして、これは(実になんと)俺の三層スキーマ「世間、魂、社会」と符合するのである。まとめてみよう。
物語 結晶 記号
ショスタコーヴィチ バッハ モーツァルト
世間 魂 社会
われらの魂は、世間(直接世界)で喜怒哀楽愛憎損得の物語を編みつつ社会(間接世界)を記号として生きる。それがわれらの人生である。最後は結晶として死にたいね。
通勤者を記号の列と呼ぶ詩あり記号の中に我の個もあり
ショスタコーヴィチ交響曲8番の感想句。スターリングラード攻防戦の犠牲者への墓碑として作曲されたが、1948年にはジダーノフ批判によって1960年まで演奏が禁止された。経済統制のみならず芸術統制するようなアホな国、今から思えば、潰れて当然ではある。
写真はいつもの杏。朝、薄桃色に光っている。
人間はおしなべて邪念の塊。そんな邪念は社会を形成しなければ生きてはいけぬ。そして、形成された社会は平和に維持継続するのが結局はコスト安。だから、社会の運営は公正であることが要請される。この事態を邪念側から見ると「思無邪」ということになる。詩経にある言葉だそうだ(ここから書も勝手拝借転載させて貰った)。
十年以上前に鹿児島出張の合間に磯庭園(島津別邸)で見かけた言葉だ。最近、大河ドラマ「篤姫」で映されたシーンが何回か出てきて思い出した。
ところで暇つぶしに日本版twitterなるもごもごに入会してみた。日記代わりには使えそうだなあ。お友達は別に欲しくはないけど。
昨日から今日の一句も復活。今日は俺のお気に入りの春の句、「魂魄のそよりと膝を立てし春」だ。そこで、俺も句をと歳時記をめくったら季語「春寒」が目についた。
さびしさと春の寒さとあるばかり 上村占魚
豹の斑の春うつくしき寒さかな 久保田万太郎
あともどりし易き病春寒し 浜井武之助
春寒や予備校募集のアドバルーン 貞弘 衛
それにしても俺の句は駄句だなあ。わが人生に悔いなし(作詞 なかにし礼 作曲 加藤登紀子 唄 石原裕次郎)のパロディのつもりだけれど。
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