真理より道理、実在より現象
現象の背後に真理も実在もない。現象のこちら側に我々は実在(記号世界)をモデルとして記号化しているのに、それが現象の背後にあるものだと思い込んでいる。同様に、真理は各人の記号世界の最大公約数として構成するものにすぎないのに、それが現象の背後にある本質だと思い込んでいる。
こうした事態をニーチェは誤謬とみなした。「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような、一種の誤謬である。」
これは、マッハの<真理と虚偽>の区別を廃し、<認識と誤謬>という区別を立てたのと軌を一にする(木田元「マッハとニーチェ」)という。フッサール現象学に至る前史としてマッハとニーチェがいた(その背景にダーウィン「進化論」がある)というのがこの本の主張だ。
これを俺のいつもの三層スキーマ(構成主義的唯物論)にあてはめるとこうなる。
価値世界 記号世界 事実世界
真理 論理 道理(スピノザの神)
構成 実在 運動(生成消滅)
そして、荒谷大輔「西田幾多郎~歴史の論理学」(西田をタルスキ、デイヴィドソンに絡めて論じたのがこの本のミソ。でも、真理や実在を現象の背後に設定している形而上学のような気がするなあ)から西田の晦渋な文章を孫引きしよう。
事実の世界は私と汝とが直接に相対し相話すことから始まる、すべて実在界と考へられるものは此に基礎附けられねばならぬ。デカルトのコギト・エルゴ・スムにも、単なる内部知覚といふ如き事を離れて自己の内に絶対の他を見、事実が事実自身を限定するといふ意味がなければならない。
これを俺流にわかりやすく翻訳すると次のようになる。西田もまた現象学を語っていたのである。
真理(価値世界)は過去現在未来の無数の記号世界(私)の最大公約数である。従って、真理の範囲を確定するためには「私と汝」のコミュニケーションが必要となり、実在もまた「私と汝」による基礎付けを要するのである。つまり、「自己の内に絶対の他を見、事実が事実自身を限定する」というのは、このような無数の記号世界の相互限定の働きを言うのである。絶対無とは無数の記号世界の相互限定(最近流行の言葉では創発。つまりは創造)のことである。
ということで哲学はプラトンの呪縛(イデア=真理一元論)から解放された。真理より道理でものごとを語るという常識にようやく立ち戻ったのである。以上、左翼(多元主義)の哲学的基礎付けのつもりである。真理一元論は親の仇なり。
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