現象学+構造主義=唯識論
現象の此岸の桜風に揺る
現象学というのは要するに「現象の背後に真理や実在があるとするのではなく、現象のこちら側(記号世界・価値世界)に真理、実在、論理のモデルを作るしかない」(真理より道理、実在より現象)という考え方である。そこで、その際に作られるモデルの客観性を保証するものは何かが問題となる。
この点、実在論(現象の背後に実在があるとするプラトン以来の考え方)では、外部世界の実在性・客観性がモデルの客観性を保証する根拠となる(フツーの考え方)。
ところが、構造主義科学論(科学は真理を追求するのではなく同一性を追求するのだ、と考える科学論)の旗手たる池田清彦はこれを否定する(池田清彦「細胞の文化、ヒトの社会 構造主義科学論で読み解く」所収「構造主義科学論から見た科学と社会」より)。
科学の客観性は外部世界の実在性により保証されているのではない←現象学、独我論
①現象をコトバに変換する時の規則の同型性→普遍性
(例)ネコより大きいよく吼える動物をイヌと呼ぶ(どの国語でも)
②コトバとコトバの間の関係規則の形式性。形式自体が客観的だから。(例)イヌはネズミより大きい。主語(イヌ。クマでもクジラでも入れ替え可能)、述語(「大きい」という関係規則)という形式自体が客観的
①は事実世界から記号世界に写像する際の同型性、例:どんな人でもまた国語でもおおむね同型な写像をしているということだ。そして、①より重要なのが②。記号世界の形式自体が客観的であり、これがモデルの客観性を保証する根拠となっているというのだ。
なんだか難しそうだけれど、数学を例に挙げればわかりやすい。ユークリッド幾何学は事実世界から抽象化写像して成立した記号世界の産物だけれど、①事実世界との同型性(円や三角形やその他の図形を想え)があり、②幾何学の表現形式自体が客観的(例:ピタゴラスの定理)なのは自明だろう。
つまり、科学の客観性が外部世界の実在性によって保証されず、科学内部の形式性により保証されることの代表例が数学(例:非ユークリッド幾何学、群論その他の抽象数学)なのである。
そしてまた、だからこそ、科学は数学をモデル化手段として使うのである(「自然は数学という言語で書かれている」ガリレオ)。こうした同型性や関係規則の形式性に着目するのがソシュール以来の構造主義である。
つまり、現象学(マッハ・ニーチェ→フッサール)は構造主義(ソシュール)と連携することによって、その科学としての客観性を得るのだ。ちなみに、池田清彦は構造主義から多元主義を導いている。
多元主義社会とは何か。それは、人々の恣意性の権利を最大限尊重する社会である。その唯一の規範は、人々の恣意性の権利を不可避に侵害しないことである。「それは様々な文化や伝統や生き方自体を擁護するのではなく、それらを擁護する個人の恣意的な権利を擁護する。」外部世界の(不変の)実在性を擁護する考え方は必然的に真理概念を擁護するため、文化や伝統の真理性を押しつけ人々を一元化しようとするが、このような真理概念を必要とせず多元的な価値を擁護する構造主義科学論は、だから多元主義社会と強い親和性をもっているのである。
記述するものとしての構造と記述されるものとしての構造の布置とを区別し、構造自体を擁護するのではなく布置を擁護するということが池田の主張する(構造主義的)多元主義である。例:君の主張には不賛成だが、君がそれを主張する権利は死を賭して守る。
そして、現代科学のモノ→コト転換を主張する竹内薫は「現代物理学の思想性は、量子重力理論という最前線の研究において、すべての「モノ」が消え去り、すべては「コト」になるのです。そこではすべての「非虚構」が崩れ去り、すべては「虚構」になるのです」と言う(量子はモノではなく波動かつ粒子というコト。電磁気もコト)。これも現象の背後に実在は無く、現象のこちら側に実在(記号世界)があるという現象学の妥当性(正しさではない)の証左である。
結局は、人間は人間の眼(構造)を通してしか事実世界を見られない(現象)という極く常識的な事に帰着するのである(これを俺は以前からモデル論的転回と呼んでいたのだ)。以上を小難しく表現すると表題の
現象学+構造主義=唯識論(全てはコト)
となるのである。おお、仏教は既にプラトンを超えていたのである。
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