音楽における情と理
BS2クラシック倶楽部が先日、二回に分けて放送したエルサレム弦楽四重奏団がよかった。まだ若いのですが、活動歴は15年にも及ぶそうです。(高校生の時に結成されたとか)というイスラエルのカルテットだ。若い感性でやわらかな音色の緻密なアンサンブルという表現でいいだろうか(音楽を言葉で表すというのは難しい)。
曲目はベートーベンのセリオーソ他が一日目、二日目がラヴェルの弦楽四重奏曲他なんだけど、ラヴェルを聴きながらネット検索していたら次のセンテンスに出会った。ラヴェルの弦楽四重奏曲を弾くから一部転載させてもらう。
ドイツ風の音楽だと、基本的にフレームワークがあって、その枠組みを作りつつ、フレーズの端々に情感を加えて枠組みを部分的に破壊すると言う操作が加わる ように思う。その操作を、私の周辺では、冗談まじりに「脱ぐ」と言っており、「もっと脱いだら」とか「もう少しゆっくり脱いだ方が良い」なんて、妙な会話 をしている。
ところが、ラヴェルには「脱ぐ」ところはあまりない。もとから薄着だけれど、衣装と肉体が不可分でもある、と安直に言っておこう。フレームと言う作りがまったく違うので、「論理的構築」と「感情的=破壊的操作」と言う対立関係とは無縁なのであろう。
なるほど。そうなんだなあ、こういう聴き方をしていたんだ。「論理的構築」と「感情的=破壊的操作」の対立関係、すなわち、理と情とを対立させて聴くというのがバッハから近代ロマン派(フィナーレがR.シュトラウス)の音楽である。
ところが、ドビュッシー、ラヴェルなど印象派以降にはこうした対立関係が無くなっていく。典型は今年が生誕百年になるメシアン(このところお気に入りになりつつあり)。音楽のフレームは理、そのフレームが情によって伸縮、展開され、聴かせどころでは「脱ぐ」という枠組みが崩れるのである(その理由が何故かという問題があるが俺にはわからない)。
小泉純一郎氏が指摘するように音楽の本質は愛なんだろうけど、西洋近代音楽はそれを理と情の対立形式で表現した。そして、その表現形式が聴きやすくわかりやすいが故に西洋近代音楽は歴史上稀に見る成功を獲得した。しかし、その幸福な表現形式もたかだか百五十年で崩壊して(理由を俺は知りたい)対立関係が不明確な難解現代音楽の時代に突入する。
以上、千年経ってもベートーベン(理と情の相克の代表)は愛されて聴き続けられているだろうか、メシアンはどうなんだろうなどと思ったりしている俺である。
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