実体はモノかコトか@ホワイトヘッド入門(1)
最近、ホワイトヘッド(近代ヨーロッパにおいて生まれた機械論的自然観の問題性を浮き彫りにし、それが「抽象を具体とおき違える錯誤(the fallacy of mis-Placed concreteness)」にもとづくことを指摘した哲学者)勉強中。きっかけは図書館で見つけた「ホワイトヘッドの哲学」中村昇。
これが面白くて、ホワイトヘッドって俺の唯識論(全てはコト)の延長線上の人やんかあと感動して、ずーっと以前に下北沢の古本屋で購入した「ホワイトヘッド」田中裕を引っ張り出して再読→理解が進んでいる(と思う)。
一言でホワイトヘッド哲学を要約すると、関係(現象)から時間、空間、物質が抽象されたのに、抽象された物質(モノ)から現象(コト)を説明しようとするのは間違いだ(科学的唯物論の錯誤)という主張になる。
これを哲学上の存在論に照らして整理しておこう。まず、
実在論(事実世界は実在するという自然観・世界観)
非実在論(事実世界は実在しない、観念が作り出したもの。バークレイが典型)
の対立がある。非実在論はどう考えても実感にそぐわないので却下するが、実在論の中で一元論と二元論の対立がある。
二元論(物質と精神が実在の二元。デカルトの心身二元論つまりは神と物質の二元論)
一元論(物質ないし現象によって一元的に世界を説明しようとする主張)
この対立は二元論の負けというのが業界の趨勢。神の存在を否定し切れなかったデカルトの中途半端が嫌なんよね。その点、スピノザ、ライプニッツは神の存在を認めても汎神論ですっきり一元論だ。
そして、ホワイトヘッドと科学的唯物論の対立は一元論内部での現象一元論と物質一元論の対立であるが、ここでホワイトヘッドが持ち出すのが延長的抽象という概念である。
線と点のどちらが実在かと考えたら線。更に、線と面のどちらが実在と問われたら面。だって、長さの無い点などという存在はあり得ないし、幅の無い線という概念も奇妙だろう。実在は長さも幅もある面なんだ。あ、更に厚みがあったなあ。つまりは無限小無限大という実在にそぐわない概念を許す数学で自然の全てを説明しようというのが行き過ぎだ。
かくして実在は現象(延長:長さも幅も厚みもある現象=コト)によって一元的に説明されるべきだということになる。原子とか素粒子とかは延長から数学的に抽象された記号にすぎないと考えるのである。この現象のことを彼は過程(プロセス)と呼び、彼の哲学はプロセス哲学と称されるようになったのである。今日はここまで。
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