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2008年8月17日 (日)

Kaori Muraji plays Satie's Gnossienne No.1

武満徹つながりでエリック・サティ。どうしてかと言うと、ロマン派音楽の終焉とはどういうことか、哲学における言語論的転回との関係は、などという屁理屈が必要になる。後ほど乞うご期待。→以下、その屁理屈である。

関心空間「翼  武満徹ポップ・ソングス」記事に「それまではただ単純にメロディや詩に重きをおいた音楽の聴き方をしていたと思うのですが、武満さんの音楽からは、音の生まれ方や音そのものの存在感のようなものを知った気がします」というコメントを頂戴して、そうだなあ、武満の音楽を「音の生まれ方や音そのものの存在感」というのは適切な表現だなあと感心した。つまり、メロディや詞という音楽の意味するものではなくて、音楽が何かを意味するのではなく、「音の生まれ方や音そのものの存在感」そのものが音楽ということだと思うのだ。

このような音楽の意味転換は、哲学における言語論的転回(フレーゲは、言葉の意味を人間の心の状態に関係づけるこうした心理主義=意味の観念説に反対した。言葉の意味を意義言葉が公共的に使用され理解されるあり方)とイミ(言葉が指示する対象)に分解し、意義もイミも公共的に使用される文脈の中で定まってくるという文脈原理を主張した)と符合するというのが俺の屁理屈である。

すなわち、音楽が何かを意味し、その意味を作り出すのが作曲・演奏でそれを聴き取るのが鑑賞という一般的な考え方ではなくて、音楽の意味とは音が公共的に使用され理解されるあり方という考え方への転換である。

将棋の駒に意味は無い。将棋というゲームにおいて駒が使われることが駒の意味である。同様に、音楽に意味は無い。音楽という作曲・演奏・鑑賞ゲームにおいて音楽が使われることが音楽の意味である。

こういう考え方はバッハの昔からあったのだろうが(そうでなければバッハがあの豊穣な音楽世界を作り出せた筈が無い)、西洋音楽において音楽家が意識的にこの考え方を採るようになったのは後期ロマン派爛熟の前後からではないだろうかと妄想する。

そして、武満の音楽も当然にこの延長線上にあり、このような道を切り開いた重要な作曲家の一人がエリック・サティだと俺は屁理屈を構成したのだ(ああ、なんとか結びついた)。
ちなみに、『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって客の邪魔にならない演奏、家具のように存在している音楽というのは重要な要素であった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえるとウィキにある。

要するに、音楽に意味を求めるな、音自体を楽しめばよいという単純なことである。こんな単純なことを言うのに屁理屈をぐだぐだこねるなと自戒しなければならぬ。

ご参考:スティーヴ・ライヒ(YouTube埋め込みあり)など、ミニマル・ミュージックと呼ばれる音楽も同じ音楽観の産物であろう。

言い忘れた。記事冒頭のYouTubeエリック・サティ「グノシエンヌ第1番」は本来、ピアノ曲だが、気に入った演奏が見つからず、村治佳織のギター演奏で代替した。音楽はまさに音を楽しめばよいのだ。

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