なぜ、人文社会科学は客観的科学たり得ないか
招待制SNS「哲学お喋りパーティ」に以下の記事を投稿した。
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池田清彦「科学とオカルト」を引用記録。
宗教は集団による信憑という形でしか、政治は権力による強制か国民による信任という形でしか公共性を担保できない。ひとり科学だけが、人間の想念や願望や恐れや思い込みから自由な、客観という基準により公共性を担保したのである。
「公共性を担保」という言い回し・発想が面白いが、これに続けて著者は、客観性は同一性(現象から記号世界に同一性を抽象することだと俺は理解)と再現可能性によって担保されるという旨、述べている。
上の基準に従うと、哲学は(やはり)科学にはなれないなあ。再現可能性も同一性も無いことを議論しているのだから。してみると、信憑という形でしか公共性を担保できない宗教と同じレベルということになるのである。
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そうしたところ、たまたま、「論理的科学的に政治を実行すると、発生しそうだと思う問題にはどんなものが考えられますか?(作者:plus something)」というアバウトミー質問とリンクすることができた。
質問者の発想は「人文科学的な分野に科学的客観性を取り込むことは出来ないものでしょうか?」ということだったようで、上の俺の記事にリンクしてくるのである。
池田清彦は
科学の客観性は外部世界の実在性により保証されているのではない←現象学、独我論
①現象をコトバに変換する時の規則の同型性→普遍性
(例)ネコより大きいよく吼える動物をイヌと呼ぶ(どの国語でも)
②コトバとコトバの間の関係規則の形式性。形式自体が客観的だから。(例)イヌはネズミより大きい。主語(イヌ。クマでもクジラでも入れ替え可能)、述語(「大きい」という関係規則)という形式自体が客観的
という構造主義科学論の提唱者である。つまり、科学の客観性が外部世界の実在性によって保証されず、科学内部の形式性(上の①同型性=同一性と②形式自体の客観性)により保証されるとするのである。
自然科学の場合は、①現象をコトバに変換する時の規則の同型性すなわち同一性の抽象が容易であり(例えば「水」という現象は容易にH2Oという同一性で抽象できる)、②コトバとコトバの間の関係規則の形式性は数学を利用することによって厳密に担保できる(例:酸化・還元の方程式)。
ところが、人文社会科学の場合は②コトバとコトバの間の関係規則の形式性以前に、①現象からの同一性の抽象が困難である。例えば、「国会議員」という現象をどのような同一性で代替できるだろうか。
人間は世界(現象)を記号化して脳内に記号世界を構築し、その記号世界を通して世界を理解する(人間は言葉=記号でしか物事を考えられぬ)。そして、構築された記号世界は人それぞれである(唯識の言葉で表現すると人人唯識=一人一宇宙)。
そして、対象が自然の場合には①同一性の抽象と②関係の形式化が可能であったので自然科学が客観科学たり得た。しかし、対象が人間乃至社会の場合には同一性(これが実体。Yahoo!知恵袋質問「実体とは何でしょうか」参照)の抽象が困難であるため、基本は人人唯識=一人一宇宙のままでしかあり得ず、精々、実証性(例:歴史学。原因と結果を実証的に関係付ける)で満足するしかないのである。
以上、「花が女か、男が蝶か」、こんな単純な抽象化も不可能であるので歌謡曲の歌詞になったりアバウトミー質問になったりするのである。
※写真は多摩動物公園で撮影したオオゴマダラという名前の蝶(蛹の写真、必見)である。
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