一人を救うために百人を犠牲にしていいのか?
国籍法問題についてずっと考えているのだが、産経新聞福島記者のブログ記事「総理番のお仕事⑥国籍法のゆくえ」の読者コメントを見て、卒然と思い当たった。そのコメントは
福島さんの議論は、一人を救う為に百人を犠牲にする議論です。最大多数の最大幸福を追求する民主主義社会では、認めがたい議論です。
村山談話が同じロジックである様に思います。それが如何に、日本国にとって禍根になるかは無視して、自分の感情を満足させた点は全く同じです。多分、慰安婦問題についての河野談話も同じ様な考えではなかったかと思います。民主党や社民党辺りには同意見の方が多いかも知れませんね。
とあって、要するに、「最大多数の最大幸福を追求する民主主義社会」では少数派や、いわれなき不平等、不正な被害を蒙っている人は多数の利益・幸福のためにその被害を甘受せよという理屈なのだ。この理屈からすると、横田めぐみさんは日本の平和を守るためには拉致されたままでいいという理屈になってしまう。コメントをした人は民主主義とは多数決民主主義のことだと単純理解→誤解しているのではないか。
いわれなき不公正、不平等を甘受してよいという理屈を認めてはいけない。誰もがそのような不公正、不平等を受ける可能性があるのだから利己を守るためにも認めてはいけない。
そのことと、一人を救うためによって生じ得るデメリットを防ぐこととは別の問題である。
国籍法の問題で言うと、「偽装認知による国籍取得は、市町村への認知届けと市町村への国籍届けを出すことによって公正証書原本不実記載罪が併合され、七年半以下の懲役と百二十万円以下の罰金になります」(河野太郎ブログ)と重罪を課す刑法が既に存在しているのだから、警察・検察・行政が厳正に対処すればよいだけのことである。
もう一度言う。一人(横田めぐみさん)を救うためには百人がある程度のリスクは冒すべきである。そのことが自分自身を守るためにもなるのだから。
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