サヨクとウヨク、複雑と単純
アニメにほとんど興味はないのだが「哲学的な演出」という言葉に惹かれて、ハイビジョン特集「映画監督 押井守 妄想を形にする~新作密着ドキュメント~」を観て、面白かった。
押井 守(おしい まもる、1951年8月8日 -とあるから、団塊の世代からはちょっと下だけどほぼあの世代(俺の世代)と言っていいだろう。番組は、新作「スカイ・クロラ」に到るまでの押井守の軌跡を描くものである。「アニメは現実から離れると単なる妄想になってしまう」と押井は考えてアニメでリアリズムを追求する作家のようである。
そこで、「押井守」で検索したら、「一見難しそうな話をすることで「難しい=価値がある」と誤解している人々をだまくらかし、不当に高い評価を得ている極悪人だ」との評価もある。なるほど、「簡単なことを難しく表現」するというのは言い得て妙である。そこで、
サヨク=簡単なことを難しく表現する人
ウヨク=複雑なことを単純に表現する人
と整理するのもあるなあと思いつつ、アバウトミー質問「どれが最も悪質ですか?」してみた。
例の、「嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない」という田母神氏の主張も、大東亜戦争に到るまでの経緯、原因といった複雑な事情を「輝かしい日本の歴史」という単純な表現に還元することなのだろう。もちろん、サヨクの主張「大東亜戦争は侵略戦争だった」についても同様のことが言えるのだが、戦場が他国の領土かどうかという単純な基準で考えると侵略という表現に分があるのは否定できない。
※もうひとつ、ウヨク(=複雑なことを単純に表現する人)の事例。
「大東亜戦争が、白人による植民地支配からの解放戦争であることは事実だ」というのは
複雑なことを単純に表現する一例。
正確な表現では、「大東亜戦争が、白人による植民地支配からの解放戦争と一部、結果的になったことは事実だ」である。
それはともかく、表現というものはたしかに難しい。全ての表現は結局、レッテル貼りと単純に受け止められる可能性があるのである。言葉を使わない表現=音楽の優位性をドビュッシーを聴きながらあらためて思うのだ。
最後に、ついでながら押井守を知らない人のためにYouTube「アニメ監督・押井守からのメッセージ~新作密着ドキュメント~」である。
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