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2008年12月23日 (火)

原理と道理の関係について

恩義さんの冬休みのお陰で俺の哲学がまた進歩してもたがな。
というのは、

真理と錯覚の違いは合理的か否かの違いということになる。そして、合理的か否かの判断基準は道理性、論理性、効率性を具備しているかどうかということになる。「真理とは何か」

という地点まで進んでいた思考が「結局は、道理とは何かという問題に戻り、思考はループする」で止まっていたところに

「合理的とはどういうことを云うのでしょうか?」質問で恩義さんとラリって

リバリアニズム原理を道理(世の中、安全な方がいい)に優先させて、貧困による犯罪増加にも政府は介入すべきでないということでしょうか。犯罪は犯罪者の自己責任だとしても、犯罪によって被害を蒙ることをリバタリアンは甘受するのですか。
原理の妥当性を道理によって論証することは難しいでしょうが、原理に基づく政策を個々に道理によって検証することはできると思うし、また、検証するべきです。道理は原理(イデオロギー)行き過ぎのブレーキとなります。

という言葉に到達できたからだ。

すなわち、原理(何らかの価値観はだれしも持っているし必要)に基づく政策遂行に対する検証基準として道理を使用するということである。

ここに道理とは(俺が思うに)①多様な価値観の尊重(価値観多元主義)と②安全清潔平和の重視である。
リバタリアニズムを例にとれば、リバタリアン(反国家、自由)の道をとるとしても①他人の価値観を圧殺してはならないし②犯罪防止に努めねばならないということである。

以上を定式化すると、価値観は(反国家、自由)に立つが政策遂行は合理的(道理的、論理的、効率的)に、ということである。

ということで感謝です。経済学に応用してみよ、恩義さん。

 屁理屈が好きで音楽大好きで彷徨う魂還暦過ぎぬ

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