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2008年12月16日 (火)

「感性、悟性、理性」から快楽論へ

アバミーの俺の質問「真理とは、それが錯覚であること忘却されてしまった錯覚である」に対して黒ゲルさんが鋭いコメントをくれた。

この言葉には非常に違和感を感じました。
なんでだろうと、ずっと考えていたのですが、「真理」は判断や評価によるものであり、「錯覚」は知覚によるものである、次元の違うものを同列に並べているのが、違和感の原因なのだろうと思い至りました。
ニーチェなので、幾分か、文学的な表現なのかもしれませんが。
また、脳科学についても、今のようには知識のなかった時代ですし。
真理とは単なる思い込みのようなものであるということを看破した言葉なのではないかと解釈いたしました。

 
俺は、「理性の産物=真理と感性の産物=錯覚とは同列に論じられない(カテゴリー・ミステーク)ということですか」とレスを付けたが、この機会に「感性、悟性、理性」について整理してみよう。

検索してみると矢張りウィキが一番信頼できそうなことを書いてくれてる。まず、感性。

近代ドイツの哲学者カントが『純粋理性批判』にて「悟性的な認識の基盤を構成する感覚的直感表象を受容する能力」と言ったが、この場合の感性はより感覚に近い位置づけである。

とある。ちょっとわかりにくいなあ。そこで、悟性(これが一般的には一番馴染みが薄い)をウィキすると

一般論としては、対象を理解する能力が悟性であり、その理解をもとに推論を行うのが理性である。

ああ、これはわかりやすい。悟性=理解、理性=推論と端的にまとめられる。とすれば、感性=感覚(知覚では知性に近寄りすぎだ)として、俺の三層世界論(事実世界、記号世界、価値世界)にあてはめてみよう。

感性=感覚。事実世界(現象)を認知する働き。
悟性=理解。現象から記号化、すなわち理解する働き。
理性=推論。記号世界のみにおいて理屈を構成する働き。

となる。そして、ここでカントの「内容なき思考は空虚である、概念なき直観は盲目である」(こういう言い回しはカント以前からあったようである)を思い出すと、

悟性(とりわけ時間、空間などのカテゴリー概念)を媒介にして感性(事実世界)と理性(記号世界更には価値世界)とは対立する。しかし、事実世界(現象)なき記号価値世界は空虚であり、記号価値世界なき事実世界(現象)は盲目である。

となる。そして、これを音楽論に適用してみよう。
すなわち、音楽は全く記号世界の産物ではあるがそれを聴く耳の快楽(感性)によって空虚であることから免れているのである。つまり、

フランス二十世紀の作曲家メシアンもまた、宗教的恍惚と官能の愛を見事にドッキングさせた作曲家である。我がピアノの師ピエール・バルビゼは、「彼は十字をきりながらマスターベーションしているようだ」と評したが、言い得て妙というべきだろう。 

以上、理性をそれなりに尊重しつつ官能に身を委ねるのが真の快楽だと屁理屈をこじつけたのであった。

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