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2009年1月12日 (月)

モデル論的転回の復習

黒げるさん、M.Lambdaさんがアバミー過去問に答えてくれたので、こちらでちょっと整理(というか俺のブログ過去記事宣伝)してみる。
テーマは「自然界に偶然はあるか」「自然、必然、偶然の関係について述べよ。余裕があれば自由意志についてコメントせよ」である。

基本的な俺の考え方は三層世界論(価値世界、記号世界、事実世界)である。すなわち、事実世界を生きている我々ではあるが、そのモデルを脳内に作り出した記号世界を中心に日々我々は暮らしていると考えるのだ。
(例)俺が愛している彼女は事実としての彼女ではなく、(実は)俺が脳内に作り出した彼女のモデル(記号)。

この発想をもう少し詳しく書いているのが次の記事(ここでは記号世界のことを概念世界と呼んでいる)、「モデル論的転回の提唱」である。

これに従うと、自然も必然も偶然も記号(概念、モデル)にすぎない。カオスというのもモデルの一つなんだろうなあ。かくして、俺は現象(事実世界の現象)、全ては主観(モデル)となるのである。

そして、自由意志の有無についても、自由も意思も記号なのだから(事実世界では単にあるがまま)スピノザの言う「自由意志の否定」も事実世界では正しいとなって辻褄が合うのである。参照→「人生方程式と自由意志の否定」全ては必然的→経済合理性と論理的必然性に還元される。

ご参考までに、言語論的転回についてのウィキから一部転載しておこう。

言語が現実を構成するという見かたは、 常識や西洋哲学の伝統の大部分とは逆である。 伝統的な視点は単語をラベルのように機能するとみなした。 まず最初に、実際のいすのようなものがあると思われ、それに続いて「いす」という言葉が参照するいすという意味があると考えられた。しかし、既に構造主義 の創設者フェルディナン・ド・ソシュールは、意味の差異が音声的差異から独自に存在しえないことを示した。 意味の差異は私たちの知覚を構造化する。「肘掛いす」と対照された「いす」の意味を知らないで、私たちは、単純ないすがいすであると認めることができない だろう。したがって、私たちが現実に関して知ることができることすべては、言語に条件づけられているのだ。

 屁理屈を今朝もこねてはキーボード音楽聴けば言葉は消えて

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