最近、哲学的経験が三つあった。
その1:ベートーベンとメシアンの音楽の違いの発見
ベートーベン「ミサ・ソレムニス」を聴いていて、同じ宗教音楽なのにメシアンとどこが決定的に違うのかなあと疑問に思った。
疑問に思いつつ聴いているうちに、そうだここにはエロスが無いと気づいた。
ミサ・ソレムニスは何かを主張したり形容するための音楽だけれど(俺はそう思う)、メシアンはそうではない。この空中浮遊感、不協和音、鳥のさえずりなど
が純粋にエロスそのものなのだ。そういえば、フォーレ「レクィエム」にもこの空中浮遊感エロスがあることにも気づいた。参考:関心空間俺のキーワードから下に孫引き。
フランス二十世紀の作曲家メシアンもまた、宗教的恍惚と官能の愛を見事にドッキングさせた作曲家である。我がピアノの師ピエール・バルビゼは、「彼は十字をきりながらマスターベーションしているようだ」と評したが、言い得て妙というべきだろう。
その2:愛、慈悲は宗教の範囲外であることの発見
キリスト教は愛、仏教は慈悲を説くと一般的には理解されているが、実はそうではない。
愛にせよ仏教にせよ社会の規範(ルール)のうちの一つだが、本当の宗教は社会的規範を説くことなどは範囲外だ。仏陀は悟りを得たけれど、それを人々に説くことなど当初は考えもしなかったらしい(人に勧められてようやく説教
を始めたとのこと)。
悟りは個人の魂に関すること(エロス)、慈悲は社会的規範(言語ゲーム/ロゴス)ということで、悟りと慈悲とはカテゴリー不一致なので
ある。
参考: 仏教vs.倫理 (ちくま新書)末木 文美士
その3:愛と快楽(エロス)とは次元が異なることの発見
「快楽無しの愛は存在するか?」というだいぶ以前の俺の質問にM.Lambdaさんが答えてくれたときからずっと引っかかっていた。
ここに言語ゲームの概念を持ち込んで、愛、慈悲は言語ゲームの枠内、快楽(エロス)はその枠外だとすると愛とエロスとの関係は次元が異なるという形で明確に整理できる。
そこで、人生方程式(人生=利己(損得、好き嫌い、支配欲)+利他(計算、快楽))を次のように改訂する。利己と利他とをコインの裏表としてロゴス函数に持って行ったのですっきりすると同時に、エロス函数登場で厚みが増した。
人生=ロゴス(損得、好き嫌い、規範)+エロス(魂)
ここに、損得、好き嫌いは利己。規範は利他(の側面あり)。つまり、利己と利他とはコインの裏表(互いに相手を前提としている)、すなわち、言語ゲーム(ロゴス)の範囲である。
これに対してエロス(魂)は社会に還元し得ない私、換言すると、エロス(魂)にとって実は社会なんかどうでもよくて、この私が悟り(エロス)を得ればよいのである。そこに愛や慈悲を持ち込もうとするとハナシがややこしくなる(大乗仏教が仏教に慈悲を持ち込んだ!?)。
ということで、人生は知(ロゴス)と情(エロス)。知に働けば角が立つ、情に棹差せば流される、兎角この世は住みづらいというお馴染みの事柄に照応するわかりやすい方程式なのであったと自己評価である。
ちなみに、エロスがわかりにくいなあと思った人は、自分の中からロゴス函数を抜き去ってみて、残ったものがあなたのエロスです。
と、ここまで書いたけれど、実は、この種のことはずっと前から俺は屁理屈を捏ねていたのだ。例えば「人生三枚舌悦楽教の奨め」(我々は三つの世界を生きている)。
でも、人生方程式として定式化できたのは初めてだなあ。そこで、人生三枚舌悦楽教宣言としよう。無知蒙昧なオバハン相手に新興宗教で銭儲けできんかなあ。
さて駄文最後に築地正子の歌を引こう。
桃いくつ心に抱きて生き死にの外なる橋をわたりゆくなり
この「生き死にの外なる橋」が宗教=エロス(人生三枚舌悦楽教)である。わかった?そこのオバサン。わかったら、ご喜捨持って来るんよ。
※そうそう、西田幾多郎にこんな歌があった。
我が心深き底あり喜びも憂いの波もとどかじと思ふ
そして、西田には「我々の自己の自覚の奥底には、どこまでも自己を越えたものがあるのである。我々の
自己が自覚的に深くなればなるほどしかいうことができる。内在即超越、超越即内在的に
、即ち矛盾的自己同一的に、我々の真の自己はそこから働くのである。そこには、直観というものがなければならない」という文章もあるそうだ。
エロスとは、「内在即超越、超越即内在的に
、即ち矛盾的自己同一的に、我々の真の自己」のことなのであった。
※エロスの歌、追加。お気に入りの二首を追加しておこう。まずは岡井隆。
生きがたきこの生のはてに桃植ゑて死も明かうせむその花ざかり
そして、斎藤史。
死の側より照明せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも
ええい、ついでに俺。
エロスより出でてエロスに環り来む意味を求めてめぐりし後に
利己と利他とがコインの裏表であったように、エロスとタナトゥスともまたコインの裏表であることを岡井、斎藤の歌でおわかり願えたであろうか。
※冒頭の写真は先日の百草園吟行で撮影できたカンザキアヤメ。
カンザキアヤメは地中海から西アジア原産の常緑多年草である。冬に温暖な地中海地域の原産であるとわかれば、冬に咲く性質が理解できるとのことである。
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