大乗偽仏教論
を読んでなかなか面白かった。日本の仏教は異質(もっと言うと異端)という主張の本である。
僧侶は妻帯が普通、職業も財産も世襲(しかも非課税。相続税も無し)、葬式に呼ばれてもお経を唱えるだけで講話をする訳でもなく高いお布施をとる。信者も お経の意味を理解しようとはせずただただ有難がるばかり、坊さん(出家ではなく在家僧侶が実態)も昔のシナ人が訳した漢訳のままでお経を唱える(自国語の経典を持たない仏教国は日本だけ だそうだ)。その他、墓の存在・回忌法要・戒名(これらも日本のみに存在)、釈迦よりも宗祖(親鸞、日蓮など)を上位に置く宗派仏教など、なるほどと納得の日本仏教異端論である。
しかし、著者が理想とするブータンの仏教が何故、範たり得るのか理由が俺にはよくわからなかった。国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)を前国王が主張したのをその模範例としているのだが、経済は経済、宗教は宗教で別に捉えるべきではないか。いかに立派な宗教があろうと、人間、食べることが先決、貧困追放こそが政治の努めであろう。
人生=世俗(損得、好き嫌い、理非、善悪)+魂(苦楽、美醜、真偽)
だから、俺は宗教に道理や倫理を持ち込むことに反対である。貧困その他世俗の問題は世俗論理でないと解決できないし、また、解決するべきだ。宗教は魂の問題にのみ専念するべきである。
これを推し進めると大乗仏教(自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行)否定論に到達することになる。そこで、今後の仏教悦楽課題は
①小乗仏教は自業自得論(縁起の思想)すなわち利己の立場。これに対して大乗は利他(慈悲)の立場だが、諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静の四法印という仏教の根本思想から慈悲は素直には導かれないように思う。そもそも、大乗こそは偽仏教ではないのか。
②仮に利己と利他とを統一的に解し得るとしても、仏教を宗教として成立させている概念「悟り」、そんなものがあり得るのか、成仏できるのか。
ということで、禅や小乗(これは大乗からの蔑称、正しくは上座部)、原始仏教などを探求してみたい。善悪や愛、慈悲、道理を超えたエロス(宗教的恍惚)を目指して、と一応書いておこう。
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コメント
利己を突き詰めると結局は利他(周りに対する感謝から来る行為)に行き着くような気がします。
利他を突き詰めると結局は自己満足的な利己なのではないかと思うのです。
ですから私は欲望のままに生きて行く道を選びました。
投稿: かりか | 2009年3月11日 (水) 午後 10時53分
うわぁぁ、お見通しやないですか。私の行きたい場所を示されてしまいました(観音様に)。
そして、問題は「突き詰める」ということにあると思います。得てして中途半端に立ち止まってしまいがちで、そこに煩悩が生じます。ですから、突き詰めるのではなく突き抜けるというのがあらまほしき言葉かもしれません。そして最後は自然体で歩きたいものです。
投稿: 土曜日 | 2009年3月12日 (木) 午前 06時18分