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2009年3月 6日 (金)

信仰へ到る道(土曜日菩薩教宣言)

哲学お喋りパーティ(招待制SNS)で閃いたが、公開しないと勿体無いような気がするのでこちらにも転載する。

Photo 「拝む」と「祈る」、面白いです。
「拝む」には拝跪などという言葉があるように、自分より上の対象を崇めるという語感を持っています。これに対して「祈る」は対象を固定せずとにかく願うというニュアンスを感じます。ですから、私は、「祈る」の方が宗教的だと考える訳です。
もっとも、仏様は拝むもので祈るものではありません。また、神は拝むものではないですね。ちなみに、円空仏を添付しました(出所は円空微笑み物語)。最近、興味を持っている仏像です。この仏様も祈るものではなく拝むものです。

 ところで、アバミーの私の質問に対して

私は教養もなく、まったく宗教には興味がありませんが、私の中に「神様」いると信じていますし、毎日寝る前には「今日は一日無事に過ごすことができ、ありがとうございました」と心の中で手を合わせてから、眠ります。

とコメントしてくれた方がありました。

①信心(とにかく心を信じる)→②帰依する→③信仰するという信仰のレベルがあるのかもしれません。私は仏教を①または②している段階です。
Photo_2
仏の実在を信じず悟りの実現も否定する仏教帰依者、それを菩薩と称することにしようか。名づけて土曜日菩薩教である。どうだ、参ったか。

写真は奈良斑鳩、中宮寺の観音菩薩。

国際美術史学者間では、この像のお顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑」(アルカイックスマイル)の典型として評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作モナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれています。

だそうだ。

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