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2009年4月26日 (日)

ひとりいることの快楽ヘッドホン未明聴きをり武満徹

アバミーで「幸福と快楽の関係について」なる質問を作ろうと思い、イメージと選択肢を検討中。
快楽といえばエピキュリアン、エピクロス。そこで、ネット検索したが適切なイメージは見当たらない。しようがないので哲人エピクロスの胸像にする。

選択肢は
・幸福は継続的、快楽は刹那的
・快楽は刹那的だけれど、快楽の総和が幸福
・両者は無関係、言葉の定義の問題にすぎない
・幸福は倫理に適合、快楽は反倫理的(な場合あり)
・幸福は社会と関係、快楽は非社会的、個人的
・誰かといる幸福、ひとりである快楽
・その他
にしよう。

ちなみに、ウィキから一部転載。

エピクロスの自然思想は、原子論者で あったデモクリトスに負っている。つまりそれ以上分割できない粒子である原子と空虚から、世界が成り立つとする。そうした存在を把握する際に用いられるの が感覚であり、エピクロスはこれは信頼できるものだとみなし、認識に誤りが生じるのはこの感覚経験を評価する際に行われる思考過程によるものだとした。

こうした彼の認識論は、後述する彼の倫理学説の理論的基盤となっている。たとえば彼は「死について恐れる必要はない」と述べているが、その理由として、死 によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張を行っている。このように「平静な心 (アタラクシア)」を追求することを是とした彼の倫理学説の淵源は、彼の自然思想にあると言える。

より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸 宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐 怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとし て開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、 その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。

次いで、あの博識な松岡正剛から一部転載。

さて、世に知られるとおり、エピクロスの名からはエピキュリアンという言葉が生まれた。快楽主義者とか享楽主義者などと訳されている。
 澁澤龍彦も『快楽主義の哲学』でエピクロスを大いに引いた。いやだれもが快楽主義とエピクロスを結びつけてきた。しかし、この見方ははなはだあやしいも のである。だいたいエピクロスは快楽など追求しなかった。仮に快楽に近い言葉をつかっているときも、それはたいそう静かなものだった。むしろエピクロスは 苦痛を嫌ったのである。人を苦しめること、人を苦しめる思想、人を苦しめる制度、人を苦しめる思索を嫌ったのだ。

「隠れて生きよ」が快楽主義(エピキュリズム)のキャッチとされているのだが、俺はワリとこの言葉が好きだ。「ひとりである快楽」という言葉を見つけた所以はこのあたりにあるのだろう。

 エロスより出でてエロスに環り来む意味を求めてめぐりし後に

そして、今朝の一首。

 ひとりいることの快楽ヘッドホン未明聴きをり武満徹

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