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2009年5月14日 (木)

出会ふ人みな観音さまと拝みつつ我が知恵誇る性のかなしき

ウィキによると、

観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。

そうである。

ところで(と、また、知識をひけらかすことになるのだが)本質主義と社会構築主義(構造構成主義)との対立はプラトニズムvs反プラトニズムの対立と表現するのが妥当だろう。
そこで、、「ニーチェ プラトン」で検索したら面白い記事(「プラトン的自分とニーチェ的自分」)に出会ったので一部転載しておく。

一方、19世紀に登場したニーチェは、 「変化することによって存在する」といいます。古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉がニーチェを理解するヒントになるのですが、それは「人間は決し て同じ川に入ることはできない」という有名な言葉です。一回入った川は全体としてみれば変わってないように思えますが、そこに流れている川の水は、一回目 に入った水ではない。なかなか示唆に富んだ言葉です。ニーチェは存在が立証できるのは、その存在が常に新しく変化しているからだ、というわけです。彼は、 そのように不断の変化を続けている人間を「超人」といいました。つまり過去の自分を越えていくことを続けることで、自分の存在を感じる人間のことです。

ということで、俺はニーチェ的自分であることを確認した次第である。超人とは毛頭思ってはいないが。

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