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2009年6月26日 (金)

井上靖と小澤征爾

20081105_2 BShiの番組100年インタビュー「小澤征爾~西洋音楽と格闘した半世紀~」を観ていたら、小澤征爾がいい話をしていたので記録しておく。

スクーター一つで海外に飛び出した小澤がブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して仕事が来るだろうと思っていたら、仕事も来ないしマネジメントの話も無い。当てが外れてがっくりしていたら日本国内の仕事の話(群馬交響楽団)が来たので日本に帰ろうかと考えていたところ、井上靖に「帰るな。世界で頑張れ」と諭されて群響の話を断ったそうだ。

ここで日本に帰っていたら世界のオザワは無かっただろうなあ。人間、転機はあるものだ(俺はどうだったんだろう)などと思った。そこで、「井上靖 小澤征爾」で検索したら次のサイトが見つかった。

1962年(昭和37年)1月、サンフランシスコ交響楽団の指揮をし、大成功。同年6月NHK交響楽団の指揮者に就 任。12月に同楽団の団員からついていけないとボイコットされる(いわゆるN響事件)。翌年、小澤征爾を応援する井上靖、石原慎太郎、大江健三郎など多く の文化人の主催による「小澤征爾の音楽を聞く会」で指揮。大好評だったが、ニューヨークに再び渡る。シカゴ交響楽団のラヴィニア音楽祭で、急病の指揮者にかわって指揮をする。そこで、シカゴ響のディレクター、ラドキン氏に「この音楽祭をきみにあげよう」と言われ、翌1964年から5年にわたってラヴィニア音楽祭の音楽監督を務める。

人生、まさに出会いである。駄句近作「蚊のごとき男の一生ピアノ弾く」に断然おもしろい。「ピアノ弾く」は自嘲か」との評を頂戴したのが嬉しかった。

※写真は2008年小澤征爾が文化勲章を受章した時の記者会見の様子。日本国政府が小澤に先んじて森光子に文化勲章を与えたことを俺は忘れない。

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