三菱一号館美術館「マネとモダン・パリ」展
三菱一号館美術館「マネとモダン・パリ」展を観て来た。マネはだいぶ以前に「フォリー=ベルジェール劇場のバー」を観てから惹かれている画家である。
で、今回の目玉はベルト・モリゾ(マネのモデルをつとめる一方で自らも画家。1874年、マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚)。モリゾの肖像だけを集めた小部屋にあの有名な「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像」1872年が展示されていた。俺の貧弱な観賞眼でも他の肖像画とは段違いの傑作である。これはこれで上のリンク先で観賞してもらうとして、もう一枚のお薦め肖像画が上の画像「横たわるベルト・モリゾの肖像」1873年である。こちらの方がモリゾの肉感がより濃厚に迫ってくる。この数年間に彼、彼女の間に何が起こったのか起こらなかったのか、そんな妄想をしてしまう。
ちなみに、マネはすみれのモリゾの肖像画について「何よりもまず黒、絶対的な黒」と言ったそうだ。なんのことやらようわからないが。
エドゥアール・マネ、壊疽で左足を切断した1883年に死去、享年51歳。
2010年04月22日(木)
1:44小用離床後しばし我慢するも寝付けず2:30起床。沼尻竜典大阪センチュリー響/西村朗「オーストラのための<蘇莫者>」、西村の作品を聴くのはこれで二件目、日本風東洋風大陸風の味わいがある。何を意味しているのかなどと無粋なことを考えずにぼうっと聴いてればいいのだ。
posted at 03:21:07
@tadamori_oshima いろいろ大変でしょうが人気取りに流されず堅実政策集団自民党を是非積極的に打ち出してください。経済・財政・福祉を立て直すことができるのは自民党だけと確信できる「小さな政府」政策を見せてくれれば一票入れます。
posted at 03:25:17
ブログ更新→映画「ただいま それぞれの居場所」感想/ワタクシ的には多数の側に属しているのが安穏なことは否定できない。そこで俺は安穏に死ねるよう他人様の世話にならぬよう多数派に居場所を持ったままで生涯を終えるべくプールにせっせと通うのである。http://bit.ly/9vjSt9
posted at 04:06:53
「財布は右(多数派)に思想は左(少数派)に」が健全な生き方だと今、思いついた。
posted at 04:10:14
メタ・フォーSQでバルトーク。ショスタコはだいぶ聴き込んだけどバルトークはいまいち。難攻不落のオンナみたい。
posted at 04:34:03
構造構成主義とは何か<判断中止→還元→関心相関性>/客観という価値はあり得ない、しかし、全ては相対的としてしまうとニヒリズムに陥る。そこで、価値については判断中止、価値の根拠に還元して関係者の関心相関性を吟味調整して妥当な結論を認めること。http://bit.ly/9nej8s
posted at 05:11:13
変化する自然現象を変化しない同一性(言葉)で記述することが科学。唯一の正しい科学理論はない。世界中の人々の意識の中に存在している、相互に共通であったり背反したりしている多元的な心的構造の実在性だけを前提にするのが構造構成主義。http://bit.ly/bxspqG
posted at 05:22:56
諸法無我人人唯識諸行無常。世界の全存在は縁起つまり関係性(諸法無我)。心の外に事物的存在はない。一人一人は阿頼耶識の生み出した世界を認識(人人唯識)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは他人の中に自分と共通の種子が存在するから。http://bit.ly/aBa5YU
posted at 05:37:44
構造構成主義、現象学、唯識論、小乗仏教、人生方程式のつながりが一応まとまった。 http://togetter.com/li/15493
posted at 05:40:46
@biwaprancer おはようございます。手許にパソコンがあると聴楽に集中できない朝です。posted at 05:45:43
純粋経験から行為的直観へ:物が我を限定する世界の中にあり同時に我が物を限定し世界を作り出すということだ。行為・身体を純粋経験に付加することにより西田は、世界内存在であり同時に世界を変革する人間の歴史性社会性を実在を説明する基礎として据えた。http://bit.ly/5bRHIz
posted at 07:59:39
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