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2010年6月 8日 (火)

自由、平等、合目的性の三項対立

ハーバード白熱教室第9回「入学資格を議論する」(途中から再放送を鑑賞中の俺にとっては第7回「嘘をつかない練習」、第8回「能力主義に正義はない?」に続く第3回)が面白かった。

今回はアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)がまず題材。
アファーマティブ・アクションの支持の論拠は、
1 是正---教育的背景の格差のため
2 償い---過去の過ちのため
3 多様性---教育的経験のため(人種等の違いのある学生と生活する)
     ---社会全体のため(例大学の地域貢献にふさわしい人材教育)

なのだが、これは逆差別される側にとって権利の侵害にならないのかというのが最初の問題提起である。

是正にせよ償いにせよ、それは過去のこと、現在の(一生懸命勉強して必死に入学しようとする)学生にとっては自ら預かり知らぬことだ。また、多様性を論拠としても、この私が何故不合格とされねばならぬのか納得が行かない。

ロールズは上の批判に対して、正義(分配の公正)は無知のベールによって現実を遮蔽して理性からのみ原理を抽出すべきと反論しようとするみたい(この反論は番組では明示的に述べられず、俺が勝手に付加した)。すなわち、

ロールズの「正議論」では、分配の正義は、階級や収入、財産、地位、立場であれ道徳的対価の問題であることを否定

する。正義の前では努力や能力などの個別事情は沈黙せざるを得ない(無知のベール)場合があるという訳だ。そう言われてもやっぱり納得できないよねえ。

そこで、サンデル教授はアリストテレス(目的論的思想)を持ち出す。題材もアファーマティヴアクションではなくもっと端的な「最高のフルートは誰の手に与えるべきか」とする。

この問題に対する答えを(番組から少し離れて)整理すると下の俺のツイートになる。

ハーバード白熱教室「最高のフルートは誰の手に」の俺なりの整理→①市場の自由に任せるべき(市場原理主義)②美徳・道徳・才能とは切り離して考えるべき(カント、ロールズなど自然権平等思想)③フルートの目的による(アリストテレスの目的論的思想)。
 
つまり、①人々の自由な契約に委ねるべき。おおむね、高い買値を提示したものにフルートは渡るだろう。②無知のベールをかぶせて最も平等な与え方にするべ き。何が一番平等なのかどう考えればいいかよくわからぬが。③アリストテレスの目的論的思想に従う立場。フルートの目的に照らして与えるべき人を決定すべ き。一番演奏が上手な人に与えるのがフルートの目的(いい音楽を奏でる)に適っているだろう。

ということで、正義(分配の公正)は①自由②平等③合目的性のどれか、ないしは、その複合というのが俺の結論である。

①貧乏人は自己責任だから放っておけ、いや、②可哀想、人間皆平等だから消費税を上げて出来る限り生活保護せよ、いや、③国家の目的は治安維持にあるのだからその限りでの救貧防貧対策で必要かつ十分というお馴染みの議論である。

ところで、アリストテレスの目的論的思想。

自然的な変化を目的実現の過程とみる見方。たとえば落下運動については、「重い物ほどその本来の位置は下の方である。重い物ほど下の方に向かおうとする性質が強いので、重いものほど早く落下する。」といった具合に説明する。

というものだ。アリストテレス(目的論的自然観)→デカルト等啓蒙思想(機械論的自然観)と自然観は変遷したということをこれを機会に復習した。

自由かつ 平等が理想だけれど両手に花は無理ゆえに切らねばならぬどちらかを。スマン、別れてくれ、お蔦、俺の目的達成のために。悲しきかな湯島の白梅。

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