「ふしぎなキリスト教」に続く終活キリスト教読書第2弾。昨日、ありどおろ座ガラ/オケ合わせに向かう途中、図書館でリクエスト受領して8割方読了、読みながらスマホ検索して参考記事発見。そこからつまみ食いコピベしておく。
キリスト教が生まれてから、聖書ができるまで、300年以上もかかっている。裏を返せば、キリスト教に聖書がなかった時代が、長く存在したのである。それほど長い間、聖書が存在していなかった理由として、いくつかのことが言われている。一つには、神とのつながりを権威の源としたため、聖書という
異なる権威が生じることを防ごうとしたことがある。次には、原始キリスト教は、ユダヤ教の一分派であって、ユダヤ教に旧約聖書がある以上、それ以外のテキ
ストは必要とされなかったことである。
マルコによる福音書
A.D. 1世紀半ば、最初に書かれた福音書である。エルサレムのギリシア語を話すユダヤ人(ヘレニスト)が、作者であり、対象とされた読者層と推定される。
聖霊主義。「聖霊を与えられて活動する者が、どのような行き方をするかを、イエスという最初の実例をもって示した物語」。
ルカによる福音書
A.D. 1世紀末に書かれた、マルコ福音書の改訂版である。ルカ福音書は、使徒言行録と一組になっており、前編をなす。分量的にも、マルコ福音書の4倍にふくれている。
ルカ福音書は、普遍主義という性格を持っている。もともと、イエスの教えも、ユダヤ教のバリエーションとして始まり、ユダヤ人を対象としたものである。それが拡大し、救いの範囲もユダヤ人以外にも向けられるようになった。
マタイによる福音書
A.D. 1世紀末に書かれた、マルコ福音書の改訂版である。ユダヤ人キリスト教徒に向けられており、イエスを新しい掟を与える者と位置づけ、この掟を守ることで救われうる、という立場をとる。
新掟主義。マルコの改訂版。「聖霊主義は退けられている。イエスはモーセ律法に代わる新しい掟を与える者である」。
ヨハネによる福音書
A.D. 1世紀末~2世紀始めに書かれたとされる。ヨハネ福音書は、イエス自体を神格化する。この傾向は他の三書と異なっている。なぜなら、他の3書は、イエス自体ではなく、イエスの活動の意義をテーマとしているからである。
イエスに結びつくことが、唯一、神と結びつくことだとして、他の権威を否定する。
以上、全て「創作のための物語学・神話学 - 新約聖書」からのコピペ。マルコ=聖霊主義、ルカ=普遍主義、マタイ=新掟主義、ヨハネ=イエス主義と覚えておこう。救いは何によってもたらされるかという考え方(主義)がそれぞれ異なるのである。
ところで、救いって何やねん?これが(忘れてはならない)大疑問。
2014年05月17日(土)
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