神ははたらく
〈はたらく神〉の神学 八木 誠一 by G-Tools |
この本、著者の名前に聞き覚えがあったので図書館で借り出し。まだ1/4も読んでいないけど八木神学のエッセンスを理解できた気分で久しぶりに読書ノート代わりにトゥギャッた。そのエッセンスは
八木神学のミソは、神を実体視しないで作用とすること(だから、神ははたらく)。そして、「神のはたらき」は人間の世界では,ただ人間を通して,人間のはたらきとしてのみ,現実化するのが基本。
また、神は世界と人間がそこに置かれている「場」であり、身体としての人間は、神の働きが宿る「場所」。すなわち、「場」と「場所」を区別する。
そしてまた、神のはたらきを受ける「場所」も「自我」と「自己」に区別する。すなわち、「自己」とは「私のなかに生きるキリスト」のこと、「自我」とはそれをいわば映して成り立つ主体のこと。ここに、自我に働きかける神(場)に目覚め、我執・我欲を捨て、自己(キリスト)を映すのが回心となる。
かくして、神(場)、神のはたらき(神の自己伝達作用つまり聖霊)、キリスト(すなわち人のなかではたらく神)は三にして一である。これが八木神学の三位一体論、これなら(俺のような)無神論者でも受容できる。
更には、愛は「きよらかなやさしいこころ」であり、「損をしても真実を求め、語る誠実さ、無意味であっても生きる意欲」である。この「きよらかなやさしいこころ」という愛の定義はこれまで接した中で最も簡明、感銘。
そこで、我が人生方程式(義務を果たしているときにあなたは自由だ)は遂に神学方程式に発展。すなわち、
人生=自我(損得、好き嫌い、理非、善悪)+自己×キリスト(苦楽、美醜、虚実)。
かくして、キリストの愛(きよらかなやさしいこころ)に照らされて俺の自我と自己は統合され、自由に満たされるのだ(以上、信仰まで0.5マイル)。
2014年05月26日(月)
ヴェルディと武田鉄矢と鶯谷 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… ドキュメント72時間「大都会・真夜中の大衆食堂」R山手線で一番乗降客が少ない「鶯谷駅」。昼間は人通りもまばらだが、夜になると雰囲気が一変、無数のラブホテルや風俗店のネオンが輝き出す×定量+1ぐらい。8534
posted at 05:06:29
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