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2014年5月21日 (水)

義務を果たしているときにあなたは自由だ

『新約聖書』の「たとえ」を解く (ちくま新書) 『新約聖書』の「たとえ」を解く (ちくま新書)
加藤 隆

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加藤隆「『新約聖書』のたとえを解く」を読み始めた。
新約聖書のなかで、たとえ話という形式を使っているのは、イエスしかいない。それは何故かという問題はあるけれど(義務や命令などという直接的な表現を避けた理由)それは置いておいて、サマリア人やマルタとマリアや放蕩息子のたとえについて俺なりに考えてみた。

これらのたとえの意味するものについて、父親になぞらえた「神」の寛大さや、回心をすれば救われるなどいうのが一般的な解釈。加藤隆は更に、「救い」には、段階的な違いがあることを確認しているのが、このたとえ話のメッセージだとする。

なるほどそれもそうだが俺は、神の愛について不平等だとか不公平とかの文句をつけるなとイエスが諭しているように感じた(マルタとマリヤ、放蕩息子)。そこで、得意の人生方程式。
人生=横軸世間(損得、好き嫌い、理非、善悪)+縦軸魂(苦楽、美醜、虚実)。

不公平や不平等は横軸の世界(相対界)のみにあり得ること。これに対して縦軸(絶対界)では他人との比較など無意味/足を踏まれた痛みはその当人でなくてはわからない。信仰を縦軸に位置づけたい俺は、新約聖書のたとえ話を縦軸魂(苦楽、美醜、虚実)に位置づけたいのだ。

と、ここまで考えて自ブログを読み返してみたら、

こうして、義務(定言命法)と自由は一致する。「義務を果たしているときにあなたは自由だ」がカントなのだ。

でもねえ、そんなことできゃせんよ。飯を食うためには嫌な仕事も嫌々しなけりゃならぬし、世間のしがらみを無視してこれが俺の義務なのだと言うたら馬鹿扱いされる、と思うよね、誰しも。これに対してカントは言う。

世間(感性界)は傾向性(必要)の世界、そこでは嘘も方便、必要を満たすためには世間のしがらみに従うこともある。私が言っているのは世間の話では なく叡智界(理性。当為)のことだ。叡智界において人は様々な属性(生まれ育ちやしがらみ)・必要から解放されて当為や義務について語ることができる。こ れが人倫の形而上学基礎なのだ。

を再発見。横軸(世間)は必要の世界、相対界。回心とか救いはそこにはなくて縦軸(魂)絶対界にある。すなわち、救いとは魂において義務を果たし自由になることなり。イエスよ、我は主にちょっぴり近づいたり。

2014年05月19日(月)

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posted at 18:59:46

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