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2014年6月 7日 (土)

信仰の基本モデルは「不可分・不可同・不可逆」

「般若心経」を解く―禅とキリスト教の対話を読んでいて出会った言葉。

要は、「神」と「人」とは、区別することはできる(不可同)が、切り離すことはできない(不可分)、そして、あくまで「神」が先で「人」は後という秩序は逆にできない(不可逆)、というのである。

キリスト教の三位一体という概念は手が込み過ぎていてわかりにくい。それを八木神学のように

神(場)、神のはたらき(神の自己伝達作用つまり聖霊)、キリスト(すなわち人のなかではたらく神)は三にして一である。八木誠一「…神学」P45。これ が八木の三位一体論。神を実体とは理解せず、キリストも人格主義的に捉えない場所論的神学だらこそこのような三位一体論が可能となる。

としてもいまだ隔靴掻痒。端的に「不可分・不可同・不可逆」としてくれた方がすとんと胸に落ちる。場所(人)と場(神)とは不可分・不可同・不可逆、そんな神なら(乃至、仏なら)信じてもいいような気がしてくるのだ。というか、信仰の基本モデルはこれだ。

この概念モデルは滝沢克己(懐かしいナア)の発明とのこと。

滝沢の思想の核心は実在としての「神と人間の関係」であり、滝沢はそれを突きつめた。滝沢の思想はそのことによって哲学と神学の従来の思考方法を超え、晩年には独自の純粋神人学にいたった。そこに新しい時代の生と思考の方向が示されている。

ということで、俺の終活キリスト教研究の次なるターゲットは滝沢克己。下の本を図書館にリクエストしたが(多摩市図書館は蔵書しておらず)入手してくれるだろうか?

滝沢克己の世界・インマヌエル 滝沢克己の世界・インマヌエル
柴田 秀


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2014年06月07日(土)

アンナ・ボレーナとフランス組曲と創造論 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… キリスト教の定式化「神は人となって、人のところに来て、人と共に住んだ。それは人を一緒に神のもとに連れて行くためであった」これは救済論(いつか神の国が来て人は救われる)だが、その前提として創造論(
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#photoikku 空白の多き手帳や梅雨に入る  #jhaiku ようやく入梅の一句。 pic.twitter.com/mutL6Cwsot


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「浜までは海女も蓑着る時雨かな」瓢水。風邪をひいたら薬を飲んで養生するという現実に則した生き方が、実はかえって真実に則った生き方で、仏法の奥義に通じているから風邪ぐらいひいても問題にしないというのは仏教じゃあないというんですね。ibashinen.wordpress.com/2010/10/14/%E6…
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不可分・不可同・不可逆。滝沢克巳の言われたことだという。 「神」と「人」とは、区別することはできる(不可同)が、切り離すことはできない(不可分)、そして、あくまで「神」が先で「人」は後という秩序は逆にできない(不可逆)、というのである。blog.livedoor.jp/kazusa69/archi…
posted at 14:07:05

滝沢は他方、哲学にみられる西洋形而上学的思考の隘路を、「不可逆」の一点で批判した。形而上学的思考とはロゴスへの絶対性主張なのであり、不可逆性を無視した人間の神化として、滝沢はそれを厳しく退けた。www.takizawakatsumi.com/newpage15%28si…
posted at 14:15:28

「大いなるものに抱かれあることを 今朝吹く風の涼しさに知る 」山田無文。風は空気が動いているのだ、と思ったときわたくしは鉄の棒でゴツンとなぐられたような衝撃を受けた。「そうだ、空気というものがあったなあ」ときがついたのである。www.myoshinji.or.jp/houwa/houwa_02…
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