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2014年8月31日 (日)

短歌と俳句

短歌旧作

 我が歌の泉は涸れて凡作をころがし遊ぶ夏の夕暮れ

を思い返しながら、短歌の泉は涸れたのに句作はずっと続きそうなのは何故だろうかと考えていたら、「おまえは語り得ぬものを語りたいのだ、俳句によって」と天の声がした(ような気がした)。そこで、「語り得ぬ」で自ブログ検索したら

我が俳句論的転回/俳句の書き手が現出させるのは事実世界から概念世界への写像までである。俳句にどのような価値を見出すのかは読み手に委ねられる。だから、書き手は主観を排して客観に徹するのが基本となる。語り得ぬものについては沈黙しなければならない。

とエラソーに書いているのを発見。語り口は異なっても語りたいことはいつも同じものであるようだ。

2014年08月30日(土)

カルメン×松岡洋右×信仰 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 背骨(苦楽、美醜、虚実)を一本通すために必要なのが思想・芸術・信仰。しかし、背骨(苦楽、美醜、虚実)は空気に弱い/カルメンは勢いで死んでしまうし松岡洋右は議場退場せざるを得なかった。だから人間、アタマと背骨の
posted at 05:20:45

中国人の信仰はどこへ向かうのか――キリスト、ブッダ、そして毛沢東 huff.to/1tRAXgR 「背骨」バックボーンを探す中国の人たち。そして、俺の背骨(その支え)は思想・芸術・信仰のどれなんだろうか? plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di…
posted at 07:33:39

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