佐藤優「サバイバル宗教論」p196、「近代の袋小路を突破しようとするキリスト教」でバルトのローマ書がこんな風に紹介されている。
第一次大戦のインパクトをバルトは真剣に受けとめた。そのポイントは「不可能の可能性に挑む」ということ。
人間は神ではない。しかし、人間が神になれると勘違いしたのが宗教だ。だから人間は宗教というものを徹底的に批判していかなければならない。人間は、自分が手に触れることができる世界の外側について、どうしても考えてしまう。そこで重要なのは、人間が神について語ることはやめて、神が人間について語ることに謙虚に耳を傾けることだ。そして牧師という立場にいる人は、説教壇の上から神の言葉を語るように努力せよ。それは不可能なことかもしれないが、不可能の可能性に挑めと。
これは別の言い方をすると、天才の時代が終わって使徒の時代に帰れということです。
ここを読んで佐藤はいったい何を言っているのだろうと考え込んだ。
唯名論では人のバックボーンにならないんだ。合理主義唯名論経験論は魂(苦楽、美醜、虚実)の背骨にならない。そこで、愛・真理・イデア(実在論)などが必要な理由があると気づいた。
などを思い起こして、そうかと納得。「天才の時代」というのは「科学(帰納)の時代」、「使徒の時代」は「神(演繹)の使徒の時代」と読みかえればいいんだ。すなわち、
ニュートンにせよアインシュタインにせよ科学の天才は現象から原理を帰納する天才。これに対し、宗教は演繹(原理から現象を作る)行為。ユダヤ教及びイエスという原理からキリスト教現象を作り出した使徒(パウロその他)の時代が今だ。
要するに、帰納で発展した科学(及び科学的思考)の結果したのは二度に渡る世界大戦、原爆と原発事故という袋小路。ここから抜け出すために演繹(宗教)を見直そうと言っているのだ。そこで、我が使い勝手よき人生方程式またまた登場。
人生=帰納(損得、好き嫌い、理非、善悪)+演繹(苦楽、美醜、虚実)
魂(苦楽、美醜、虚実)から演繹してあるべき社会(損得、好き嫌い、理非、善悪)を考えよう、そんな提案を佐藤はしている。佐藤は宗教の社会的役割を主張しているのである。
2014年08月31日(日)
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