「使徒的人間」を読む/その1
サバイバル宗教論 佐藤 優 by G-Tools |
きっかけは、佐藤優「サバイバル宗教論」で科学は帰納、宗教は演繹という見方を得たこと。得意の人生方程式にあてはめると
人生=帰納(損得、好き嫌い、理非、善悪)+演繹(苦楽、美醜、虚実)
更には
「信仰するために理解する」という“哲学的人間”ではなく、「信仰の先に理解がある」という“使徒的人間”による探求
とはどういうことだろう、俺に態度変更「信仰の先に理解がある」出来るだろうかと考えながら詠み始めている。
昨日から始めて全331p中現在p108とハイペースで読めているのだが具体的収穫を2つ。
第一はキルケゴール「死に至る病」の書名由来を知ったこと。
ヨハネによる福音書にラザロの復活というエピソードがあり、「これは死に至る病ではない」乃至「この病気は死で終るものではない」とのイエスの言葉に由来しているのだ。
聖書の訳に様々があり、この場合、「この病気は死で終るものではない」の方が妥当と思うが、その意味はとなると難しくそして味わい深く、「この病気」は一般に「絶望」と考えられているが、「人生」と理解してもよいのではないかと思っている。人生は死で終るものではない。
もう一つは、カルヴァン「キリスト教綱要」に原罪は「貪り」と規定されているとのこと(p106)。宗教改革の本質は原罪の再発見だそうだ。
なあんだ、原罪分かってしもうたよ。仏教で言う三毒=貪瞋痴(とんじんち)、もっと広く煩悩のことじゃん。もっとも、原罪(煩悩)がイエスの死によって贖われたかどうかはまた別、煩悩は悟りによってしか解脱できないからこれはいつかカルヴァンに当たってみなければ。
ということで、使徒的人間のエッセンスを。
「信仰は…あらゆる人間の可能性を疑問化する所から出発するということ、人間自身のあらゆる可能性が尽きはてた後で、神自身からのみ人間に与えられる可能 性であるということ、このことがこの冒険を可能にする。信ずることは、停止すること、沈黙すること、礼拝すること、知らないこと、である」ローマ書第五章 「恩寵」←「使徒的人間」p98
使徒的人間―カール・バルト 富岡 幸一郎 by G-Tools |
神と人間の間には超えるべからざる断絶があるが、時に神は人生に接線として現れる。バルトの信仰はどうもそんなモデルのようだ。全てはコト(モデル)、コトだけれどそこからモノ(物理的実在)が切りだされる。
2014年09月03日(水)
ミサソレ、偽装国民国家から帝国へ、ワシントン大行進 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 偽装国民国家(大日本帝国~日本国)→帝国(ヤマトンチュウー、沖縄、在日、今後予想される移民の方々)へ。ロシアも中国もアメリカもEUも既に帝国。帝国連合がいつか世界共和国になることを夢
posted at 05:10:02
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