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2014年9月21日 (日)

真実に向き合う信仰

旅のパウロ――その経験と運命 旅のパウロ――その経験と運命
佐藤 研

はじまりのキリスト教 悲劇と福音―原始キリスト教における悲劇的なるもの (Century Books―人と思想) 聖書時代史 新約篇 (岩波現代文庫) 最後のイエス キリスト教の自己批判: 明日の福音のために

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佐藤研「旅のパウロ」を読み始めて早速、収穫。ググって同意味の記事から(ちよっと長いぞ)コピペ。

優れた新約聖書学者である佐藤研氏が「『洗礼』と『十字架』――訳語はこれでよいか?」というエッセイを書いておられます(新約聖書翻訳委員会編『聖書を 読む:新約篇』岩波書店、2005年に所収)。佐藤氏は、そこで「十字架」「十字架刑」という伝統的な訳語に代えて、「杭殺柱」「杭殺刑」という表現を提 案します。以下、少し長くなりますが、その要点をお話します。

まず日本語の「十字架」には、教会堂の白亜の十字架やペンダントといったロマンティックな装飾の連想が強く働きます。しかし紀元1世紀の stauros(「杭」の意)には、ロマンティックな要素はまったくありません。それはローマ帝国で用いられた処刑法だったからです。この刑は重罪を犯し た奴隷か、属州民でローマ人でない反逆者に対してのみ執行された、きわめて残虐なものでした。キケロは、自分たちローマ人がこれほどに非人間的な処刑法を 持っていることに嫌悪感を示しています。

Stauroの刑は、次のような手順をとります。まず鞭打ちがなされます。紐の先に鉛などの金属が結び付けられたもので、これで背中を打たれると血と肉が 飛び散ったはずで、ほぼ半殺し状態になります。その後、処刑される人はstaurosの横木を背負って、縦木の立っている刑場まで歩かされ、そこで衣服を 剥ぎ取られた全裸の状態で、横木に両手首を釘打ちされるか縛られるかし、その状態で縦木の上に固定されます。つまりT字型です。股ないし足の下には体重を 支えるための足台がありました。それがない場合は足を重ねて縦木に釘で打ちつけました。この体重を支える工夫がなければ、ぶら下げられた人間は1時間ほど で窒息死するそうです。この後、1-2日かけて呼吸困難、血行障害、衰弱が進み、最後は窒息か血液量減少性ショックで死に至ります。すぐ殺すには、槌など で足の骨を砕いて体重を支えられなくすればよく、死を長引かせるには麻酔薬として葡萄酒を飲ませたり、気絶した場合の気付け薬として酢を飲ませたりしまし た。そして処刑の執行後、通常、遺体は埋葬されませんでした。ゴミ溜めに棄てられるか、そのまま猛禽類の餌食に晒されるかしたのです。


イエスはこのような残虐無惨な死を遂げた。
その死骸はそのまま杭殺柱に晒されて見せしめとされた(多分。俺の想像)。
そして、サウロ(後のパウロ)はイエスのその無惨な死によって回心する。

「回心」「悔い改め」は、私たちの生活において、時として、不快なもの、苦痛や不安をもたらすものとして表れます。サウロにとっても、「自分が迫害していたイエス・キリストという福音こそが、自分の生きる道だ」というメッセージは衝撃的だったはずです。使徒言行録9章4節からもう一度、読んでみましょう。

    4:サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
    5:「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。    
6:起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
    7:同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
    8:サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。    
9:サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。


イエスの十字架上の死(十字架刑か杭殺刑かという言葉の問題は置いて)の具体的なイメージを持てたが収穫だが、それがパウロの回心の具体的なイメージに多少なりともつながったような気がする。それは例えば

つまり、パウロはイエスの幻を見るのですが、それは十字架につけられた姿であり、人間の弱さの極みであり、その弱さの中にある何かが、パウロという、やは り弱さの底にあった人間を圧倒した、言い換えると、包み込んだ、パウロという弱い人間をそのまま肯定した、ということなのだと思います。

とか

「涙もて蒔く人の苦しみを主は祝し、喜びの歌をもて刈り入れのときは来ぬ」。――「刈り入れのとき」とは聖書では終末の完成をさすメタファーでもありま す。そこにつながってゆくのが、今このときに「涙もて蒔く人の苦しみ」なのだと思います。それは「杭殺刑に処せられてしまっているキリスト」という宣教の 愚かさに、深いところでつながっているように感じられます。宣教の愚かさとは、人間の独善と暴力の理不尽さを訴え続ける者の苦しみへの連帯です。これこそ 「神の知恵」「神の力」であると信じます。

ということだ。

かくしてキリスト教の信仰とは、人間の弱さや悪や悲惨の真実に向き合うことのような気がしてきた(俺が無神論者であることは依然として変わりはないが)。

今、私たちがこの場で分かち合いたいことは、「真実に向き合いたい」ということです。もちろん、真実に向き合うことは「痛い」ことです。けれど も、その「痛み」を受け容れる時、私たちは神に出会うのではないでしょうか。なぜ、その「痛み」を受け容れなければいけないのでしょうか。それは、真実に 向き合うことこそ私たちが自由になる道だと信じるからです。見たくないもの、向き合いたくないものに出会うということは、私たちがそれまで築き上げてきた 生き方、守ってきた生き方が崩されるということです。でも、いいじゃないですか。「崩されたところから」、もう一回、歩いていきましょ。その方が、もっと 楽しくて自由な道だということを信じて。

2014年09月17日(水)

大野和士、ルター×バッハ、堺雅人 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… マッカーサーの目の前で拳銃自殺するし、八千草薫が長生きしてるので一応許してやろう、駄作とまでは言えないが愚作。大晦日ベートーベン弦楽四重奏連続演奏会チケット確保、元日伊豆民宿9700円予約。posted at 05:08:48

2014年09月18日(木)

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posted at 06:55:06

#photoikku 新幹線窓辺に古書と秋の空  #jhaiku 窓辺席とれず、ためにiPhone充電も出来ず。 pic.twitter.com/Jd2CVSs54U


posted at 10:14:36

#photoikku チューハイを飲んで仕上げや秋燈火  #jhaiku 新横浜まであと一時間 pic.twitter.com/24voHbGYNd


posted at 18:35:47

2014年09月19日(金)

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posted at 18:22:53

2014年09月20日(土)

サム・ペキンパー、N響ライブビューイング、遠藤6連敗 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 普通のハイビジョンの16倍精細な画像とのことだがそこまで感じとれず。大画面サラウンド音響を楽しむ/ライブより音がクリーン(分解度高し)。ただ、ライブのまろやかさは失われるように思う
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