時間の重層化
片山恭一「どこへ向かって死ぬか 森有正と生きまどう私たち」、まだ半分しか読んでないけど、その時間論が面白かった。
「一人一人の個人のなかには重層化した時間が流れている」、すなわち、「感覚的時間」(例えば鳥が飛んでいるのを見て感じる時間)「身体的時間」(空腹を覚えることによって感じる時間)そして、「精神的時間(人間的時間)」(森有正がパリで過ごした時間)。
自分にとって最大の拠りどころは自分の中に、自分の時が流れはじめたことである。これは僕にとっても何ものにも代えがたいものである。これを自覚する時、どんな苦しみもしのびたいと思う。このことは僕一箇の問題ではあるが、僕一箇だけに止まっては、自分の時間が流れているという意識と切りはなすことができない。
(『流れのほとりにて』森有正エッセー集成〈1〉ちくま学芸文庫)
森有正氏の生活の中に、効率や採算を度外視するような、「無私の精神」が生じていたと考えられています。精神の活動の中に、人為の及ばないような「聖なる時間」を確保することは、非常に大切なことなのではないかと考えさせられました。
やはり、ポイントは、片山氏が、そういった時間を「無私の時間」あるいは「聖なる時間」と呼んでいるところです。確かに、森有正氏の生活スタイルから、そのように呼ぶのが相応しいと思われます。自分のような煩悩の多い人間であったら、このような時間を「私の時間」と呼ぶところでした。しかし、その逆なんですね。
このような時間を「人間的時間」(死を認識し、その認識のなかで生きる者の時間)と呼び、「無私の時間」とも称する。これも一種の回心ないし覚りないし悟りかもしれないなあ。そんな時間を俺は持っているのだろうかと考えた次第なり。
聴楽も回心の時秋深し
どこへ向かって死ぬか 片山 恭一 by G-Tools |
2014年10月21日(火)
どこへ向かって死ぬか(葛藤と責任) plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 『人間』は一つの生物学的な種などではありません。死を認識し、死者を悼み、自らの死を恐れる。そのことによって、人間は『人間』でありえているのです。人間は最初から最後まで精神的な存在です。それ以外の、何
posted at 05:08:30
2014年10月22日(水)
2014年10月23日(木)
五色沼踏破。帰路バス便わるくタクシーはもったいないので往路をまた歩くことにする。休憩なう、 pic.twitter.com/mIAWtnbd13
@yanu44yanu ありがとうございます。今日はなんとか薄曇り、紅葉を楽しめています。posted at 12:26:14
2014年10月24日(金)
なんか全然遅いなあ、フェイスブック。
posted at 06:38:11
2014年10月26日(日)
シューマン、太宰治、四六の和音 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 南大沢ボエーム練習・ソロコンサート打ち合わせ。帰りの運転時、横断する歩行者に気づくのが遅れる+ファミレス駐車場に入り損ねる+注文タブレットで過剰注文(伝票訂正してくれた)、疲れが出ているのかなあ。
posted at 05:57:58
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