« 「内村鑑三」入門 | トップページ | 義の神と愛の神 »

2014年10月 9日 (木)

真理は楕円形

富岡幸一郎「内村鑑三」で知った内村の言葉。

宗教においても同じである。宗教も円形にあらずして楕円形である。その中心は一個にあらずして二個である。ただにその教義より見るも、そのしかるを見る。宗教は神と人とである。神のみでない、また人である。人のみでない、また神である。宗教を単に神学と解し、神を知ること、これ宗教であると言うならば、問題はいたって簡単であるが、事実はしからずである。キリストは神であって、また人である。ユニテリアン教のように、キリストは神にあらずして人なりと言えば、説明は簡単、明瞭であるが、人は全体にその説明をもって満足しない。キリストの人たるは疑わないが、彼にまた神らしきところがある。彼は同時に人であってまた神である。説明は円満を欠く。解するに、いたって難い。しかし事実なるをいかんせん。われらは不可解と承知しつつキリストの神人両性を信ずる。頭脳に彼を受くるは難いが、心は彼をもって満足する。しかり、彼ならずば満足しない。
 その実際的方面において、宗教は慈愛と審判である。愛と義である。愛のみではない、また義である。義のみではない、また愛である。一中心ではない、二中心である。円形ではない。楕円形である。もし宗教が義のみであるならば、これをおこのうは、いたって容易である。愛のみであるならばまたしかりである。宗教を実行するの困難は、それが愛であって同時にまた義であるからである。忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならずというと同じジレンマにあると同じく、愛と義とを同時に全うするは、忠孝両道を同時に全うすると同様に困難である。されども信仰的生活において、このジレンマはまぬかるべからざるものである。われら完全(まった)からんと欲せば、このジレンマの内に完全からねばならぬ。実につらいことである。されども人生の事実であるがゆえに、やむを得ない。今の教会信者のごとくに、「神は愛なり」とのみ解して、「神は義なり」との明白なる教えに耳を傾けざるならば、事はいたって簡単であるが、人生の事実はこれを裏切りて、弊害百出して愛は愛ならざるに至るは、教会現在の状態が証し得て余りがある。(略)
我が得意の人生方程式も楕円形(世間と魂、自力と他力)、そして信仰も(神と人、義と愛)。この楕円形モデルによって信仰を受け入れやすくなるかもと内村を暫し読み続ける所存なり。

2014年10月08日(水)

復活×内村鑑三×人を愛しても信じはしない plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… なんやなんやこれ、俺のモットー「人を愛しても信じはしない」(飲み屋で職場の先輩と飲んでいて何かの拍子で「人を愛しても信じはしない」と呟いたら食って掛かられた記憶。「**くーん、さみしいよ、そん
posted at 05:14:33

#photoikku ノーベル賞記事を読みをる秋思かな  #jhaiku pic.twitter.com/PKUof8ICEj


posted at 07:59:00

RT @pinpinkiri: NHKの水野解説委員は今回の受賞を確信し、先週に天野浩教授を取材していたという。これは慧眼、すごい。理論と物的成果が交互に受賞する傾向があり、昨年はヒッグス粒子発見。今年は青色LEDしかないと読んだという。私は、恥ずかしながら、今年の物理学賞の日本人受賞はないと思っていた。
posted at 08:17:14

「いいね!」ちゃうで「ええやん!」やで、Facebookの関西弁設定が来たで、コレ jp.techcrunch.com/2014/10/08/now… 関西弁が日本語とは別の言語として認められたみたいや、ええなあ、嬉しいわ。変えたい人は設定→日本語(関西)で出来まっせ。
posted at 16:48:09

|

« 「内村鑑三」入門 | トップページ | 義の神と愛の神 »

終活キリスト教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「内村鑑三」入門 | トップページ | 義の神と愛の神 »