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2014年10月21日 (火)

全能の神の前に責任を負ふ霊魂

森有正「内村鑑三」読了。

「全能の神の前に責任を負ふ霊魂」がキーワードだった。信仰において「責任」なる言葉が出て来るのが予想外。責任感薄き我が一生よ、せめて死ぬ時ぐらいは神に対して責任を感じよ。森有正の文章をコピベ。

かれの、魂と神・・377 との、関係は、責任を中心とした人格関係であつた。人はあるひはここに武士道的精神の影響を見ようとするかも知れない。私もあへてそれを否定しない。内村自身もそれを否定しないのみならず。その中に一種の誇りさへも覚えてゐる様である。私はそれを具体的現実的な人格関係そのものと呼ばうと思ふ。それは西欧流の、殊にエラスムス、モンテーニュにはじまる、人間の自己完成を追求する、ヒューマニズムではない。人格概念ではなく、人格関係そのものである。それは凡ゆる分析と綜合以前の、具体的な人間的関係そのものである。凡ゆる観念、主義に先立つて、人間存在全体の方向を責任をもつて決定する主体的働らきである。我国の封建的な武士道精神は、君臣、父子等の具体的責任関係そのものに重点を置く。その点で内村の信仰精神と一脈通ずるところがある。しかし同時にそこに否定することのゆるされない本質的相違がある。武士道は、その関係が外面的であり、それを奉ずる人にとつて宿命的であり、慣習的である。しかるに内村の信仰は、あくまで自由で、自覚的な主体的決定である。この相異は本質的である。同じ人間的、人格的責任関係が、封建的武士道と内村の福音的信仰との間では、この様な本質的相違をもつて現れる。かれは武士道から独立し、しかもそれを生かさうとするのである

2014年10月20日(月)

ユーミン、内村鑑三、森有正 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… ふつうは、自分が信じているキリスト教から神を考えるのに、かれは、神から、キリスト教を吟味し、検討しようとしている このスタンスはありだなあ。唯一神(あるべき神の姿)からキリスト教を考える。森有正は昔、読ん
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