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2014年11月

2014年11月30日 (日)

もう踊れぬファンダンゴ 行進は泥団子

来年の4/18「村上敏明と歌う会ソロコンサート」南大沢、日本語で歌うことに決めたフィガロ。
このボーカロイドを参考にもっと表情豊かに歌うぞ、乞うご期待。

2014年11月29日(土)

失敗は神の愛のあふれる場 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… プール、松屋、日本橋へ×犬養道子「旧約聖書物語」増訂版、問題点二つ。ひとつは、全体像が掴みにくいこと(人名多し、血縁関係忘れてしまう)。もうひとつは淡々と事実関係を積み重ねているので、それが何を意味しているの
posted at 04:57:36

#photoikku メール待つ十一月もすみにけり  #jhaiku


posted at 20:03:09

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2014年11月29日 (土)

犬養道子「旧約聖書物語」アブラハム~モーセ

旧約聖書物語 旧約聖書物語
犬養 道子

新約聖書物語 旧約聖書を知っていますか (新潮文庫) 新約聖書を知っていますか (新潮文庫) 旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫) こころの座標軸

by G-Tools

二段組521Pに及ぶ犬養道子「旧約聖書物語」増訂版1977/12、これもまた俺の運命と思いなして読みつつあり。しかし、問題点二つ。

ひとつは、全体像が掴みにくいこと(人名多し、血縁関係忘れてしまう)。
もうひとつは淡々と事実関係を積み重ねているので、それが何を意味しているのかについてあまり触れられていないこと(触れているとページ数が倍以上になるだろうから仕方がないけど)。
そこで、読みつつネットで補強することにした。

第一、系図。人類史の系図(聖書によるアダム~イエスの流れ)が大変参考になる。但し、「上記の解説は統一原理の一部を江本武忠個人が解釈したもので、統一教会の公式見解として扱われるものではありません」とあるが臭そう(イデオロギー臭)。

第二、解説。牧師の書斎「聖書を横に読む」を参考に出来そう。例えば「アブラハムの生涯における最大の失敗」には

キリストの福音は、神(イエス)が明らかに失敗と見える中で私たちとともにおられ、 ご自身の愛で私たちを新しく創造してくださるという事実です。失敗は神の愛のあふれる場なのです。それゆえ、私たちは自分の惨めさにではなく、神の愛のまなざしに目を注がなければなりません。

などと書いてくれているので、そうかそういうことかと今後の教訓にできそう(失敗を恐れるな、失敗は神の愛のまなざし)。

旧約聖書は人間の愚かさの歴史、その愚かさを梃子に神を生活の軸にせよと森有正は言っていそうな。

2014年11月28日(金)

神宮外苑から初台まで歩く plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 外苑前銀杏並木は今が盛り。あんまり大した写真は撮れず、日暮れの中を代々木まで/Googleマップで初台までの距離を見たら徒歩20分→よし歩こうと決断。オペラシティに到着してオープンスペースで一服×暇つぶし+
posted at 05:42:29

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2014年11月28日 (金)

一目惚れの理科系の哲学入門

「『パンセ』数学的思考」吉永良正読書開始(まだ殆ど読んでないが)。アマゾンには

モラリストやキリスト者としての面ばかり語られるパスカル。だがその思想は、徹頭徹尾、数学的思考をベースにしている。『パンセ』から最新の宇宙論やフラクタルへ。理科系の哲学入門。

と紹介されている。本はまず最初にあとがきから読むのが常なのだが、この本にはあとがきはなし、その代わり巻末に読書案内がある。そこに

わたしは、現代の諸問題の根底には共存的利己主義、独善的人間主義、独断的科学主義の三つがあると思っており、それらの批判的解体を自分の哲学的課題の一つと考えています。

これで一目惚れ。性根を入れて読まなくっちゃ。

2014年11月27日(木)

口先男の信仰、今井正、タバコ病 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 今井正「あゝ声なき友」渥美清主演/重くてクラーイ映画だけれどなんとか最後まで到達。反戦映画とは思えぬ/人間が約束を守ることの難しさを描いた作品だろう。約束は神との約束(信仰)のみで十分。
posted at 05:07:23

RT @chibikyu: COPDは本当に苦しいです。カートに酸素ボンベ詰んで引きながらゆっくり歩くお年寄りを見かけたらほとんどがこの疾患。治りません。大切な人がタバコ吸ってたら止めさせてあげたい。
posted at 05:15:46

名曲アルバム「ないしょの手紙」に「カミラの夫も偉大な作曲家の思いに理解を示し」とテロップ→ふーん!?と思いつつググって次の記事。夫は「商用という口実で去り、彼はカミラと、可愛がっていた夫妻の息子オットーと共に過すことになった」そうな。www7b.biglobe.ne.jp/~janacekjapan/…
posted at 07:26:03

RT @B_Pascal_jp: 人間を押し潰すために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも人間を殺すのには十分だ。だが、たとえ宇宙が彼を押し潰しても、人間は人間を殺すものより尊いだろう。人間は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからだ。宇宙は何も知らない。§347
posted at 07:41:01

ニフティも格安スマホ参入 端末第1弾はゼンフォン5 (産経新聞) - Y!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141126-… 計2897円(税別、24カ月契約)はちょっと高いけど俺の次世代スマホ候補。次候補はiPhone6/どこかのキャリアの安売り待ち。
posted at 07:58:27

RT @h_hirano: こんな説がある。今回の再増税延期と解散は、日銀黒田総裁と安倍首相は歩調を合わせているという説。GDP速報値は1ヶ月前にはある程度掴める。もし、何もしないと株価は暴落する恐れがあり、先手を打って追加緩和を踏み切った。もちろんその時点で首相の増税延期と解散決断を黒田氏は知っていた。
posted at 10:50:13

RT @amneris84: 街頭インタビューに「アベノミクスのお陰で給料上がってハッピーです」「アベノミクス効果を実感!これから、ますます期待してる♡」という声も入れろとの注文だにゃ→『NEWS23』の安倍逆ギレが原因? 自民党がテレビ局に批判封じ込めの通達 lite-ra.com/2014/11/post-6…
posted at 12:48:35

#photoikku 黄落や外苑前の人だかり  #jhaiku 外苑前銀杏並木は今盛り。そこから初台まで歩いて一服なう。 pic.twitter.com/PnTfE4vYRc


posted at 17:14:13

#photoikku 早々とオペラシティのクリスマス  #jhaiku pic.twitter.com/TmdsU1ktaP


posted at 17:54:47

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2014年11月27日 (木)

信仰は人間の根本的態度(口先男の信仰)

森有正講演集「古いものと新しいもの」読了。最も感じた文章を引く。

信仰というのは人間の根本的な態度なのです。すなわち自分に起こってくる、あらゆるものの前に立ち上がり、それと対決すべきものは対決し、それと取り入れるべきものは取り入れ、学ぶべきものは学び、つまり自分でないものに自分の生活の軸を結びつけるということ、それが信仰ということであります。

俺流に翻訳すると
・確固とした自分があると思うな、常に冒険せよ/外へ向かえ
・自分でないもの(絶対の第三人称)を生活の軸とせよ

かくして、人間はその自由な決断(内的促し)によって運命(生きる目的)を発見し、全能の神の前に責任を負ふ霊魂となる。それが根本的な態度(信仰)となる。

よーし、今日から俺も森に見習ってこういう態度で暮らそう。えっ?そんなことが出来るかだって。大丈夫、森有正は口先言行不一致男(俺も同様)、遠藤周作「自分に信仰があるかどうかは死ぬ間際に決める」に感動(信仰は常に迷う)したのだから。

森と十年のつきあいのあった栃折久美子は、「書かれたものだけ読んでいたのでは、私には想像もできなかったような非常識、自分勝手、言動の矛盾、金銭感覚、……」と人間森有正を評している。

2014年11月26日(水)

#photoikku 総選挙未だ戦後の年の暮  #jhaiku 「凩に襟を立てれば戦後かな」阿部恭久のお陰の一句。 pic.twitter.com/GWVXTFFdoN


posted at 03:40:26

神(絶対の第三人称)の前に責任を負ふ霊魂、「孤高期」弦四、歌麿 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 国立日帰り湯/午睡が浅かったので昨日買ったエクセルシオop127op132をウォークマンで聴く、演奏会の残響がまだ脳裏にあるのでCDの音、潤いに欠ける(特に1stVn)。
posted at 04:58:07

COPDは中年以降に発病する場合が多く、喫煙歴のある人の20%が発病しています。あまり知られていない病気ですが、2020年には全世界の死亡原因の第3位になると予想されています。発病する人の90%は喫煙者で別名「タバコ病」と呼ばれる病気なんだってえ、止めて良かったタバコ病
posted at 19:55:36

忍び寄る病 ~“COPD”の脅威~   www.nhk.or.jp/gendai/yotei/i…
posted at 19:56:37

このCOPDで傷付いた肺を元に戻す方法は無く、COPDと診断されたら、その時点で残っている肺の働きをそれ以上低下させないようにすることしかないようです。つまり、できるだけ早くタバコと縁を切ることが、このCOPDの最良の予防法でもあり治療法でもあるということですね。
posted at 20:14:58

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2014年11月25日 (火)

神は内向的なこころ→絶対の第三人称

アブラハムの生涯―森有正講演集 (1980年)が大変為になった(世間は自力合理的分別で暮らし、魂は他力無分別に生きるべしという我が人生観にぴったり)ので引き続き森有正講演集、今度は「古いものと新しいもの」

まだ途中だが森の日本語日本文化論を勉強した。

森は、日本語の 「二項関係」 性に関連して、あと二つ問題を指摘している。いずれも日本では論理的な思考がふじゅうぶんにしか行われない、さらには思想というものがじゅうぶん成り立たないのではないか?という深刻な疑問につながる問題だ。

詳細省略(上のリンク参照)するが、こうした日本語の特性が、日本の湿潤な風土から外へ出ようとしない(使えそうなものだけ取り入れる)内向き文化につながっていると森は主張する。

ナルホドなあと老人俺はせめて気持ちだけでも外へとパスカル、ヴェイユなどの更なる読書を決意した。そして、我が肉の終焉までには

一人称の尊厳:個人というものは一人称になりうるもの、また一人称になることによってすべての根源になりうるもの、ですから個人を尊重しなければならない。それ以外に個人を尊重する理由はどこにあるでしょうか。
自分の中にすべての根源である一人称の尊厳と言ったらおかしいけれども、置きかえることのできないものを自分の内に感じるから、それを第三人称しか表していない他人の中にも感じて尊重するのではないでしょうか。
p149

一人称の尊厳爪の垢を煎じて、我が裡に神(絶対の第三人称)をお招きしよう。もともと俺の中には神の卵がいらしたのだから。

秋高しふたりごころのボクがいる
 心は内向的なこころ。情は相手に通わせていくこころ

神は内向的なこころ→絶対の第三人称。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ルカによる福音書17章20~30節

2014年11月25日(火)

ブルジョア俗物オペラ→魂の弦楽四重奏→小田剛一の回心 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 人生は固有から普遍への旅→固有(人間小田剛一)が普遍(俳優高倉健)に生まれかわった瞬間だ(と俺が勝手に決めつける)。言うならば回心やね。ああ、俺も生まれ変わりたい。終活キリスト教研
posted at 04:57:40

森有正の 「日本語・日本人」 論の三回目、いよいよ核心の「二項関係」論を取り上げます。www.tsugami-workshop.jp/blog/index.php… を研究中。日本語は二項関係(汝ー汝)が基本だから孤独になりきれないと森は言う。
posted at 08:21:41

RT @shiftsphere: #DCEXPO エクシヴィさんのVR空間タッチインターフェース体験してきました!主婦さんが案内しておられましたw 手指の認識はそのもの快適でしたー! @koukiwf さんが製作担当されたそうです。凄く良かったですよ~ pic.twitter.com/Dr5UMTi6WR
posted at 08:23:30

#photoikku 身の丈を削る年頃年用意  #jhaiku 若者は太れ、老人は断捨離、細れ。最期は霊的決着と肉の終焉へ。 pic.twitter.com/XB62R6HbdL


posted at 16:57:53

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「高倉健という生き方」に見る健さんの回心

Nスペ「高倉健という生き方~最後の密着映像100時間~」。印象的だったのは2点。

その一つは演技開眼/「森と湖のまつり」(1958年)内田吐夢監督

演技がどうにも出来なくて監督が(意識的に)罵詈雑言→本当にアタマに来てしまって「これでダメだったら止めてしまおう」と最後の撮影に臨んだらOK。

もう一つは俳優10年目を迎えた高倉健が「日本侠客伝」の出演で自身のハマリ役に出会って人気絶頂の頃。プログラムピクチャア粗製乱造、同じような役柄の連続で嫌気がさして失踪騒ぎまで起こした頃、たまたま映画館に自身の映画を見に行ったら映画館は満員。

「通路にまで人が座ってて」映画が終わると「明らかに、人が変わってる。始まる前と」
(これは俺にも実体験がある。見終わって外に出る時には健さんとおんなじように肩で風切って歩いてた)

健さんは衝撃を受けたんだろう。高倉健(本名・小田剛一)が自分の人生の意味に目覚めた瞬間だ(俺が勝手にそう思うだけだが)。お客さんは粗製乱造の映画にこんなに感動してくれている。

人生は固有から普遍への旅→固有(人間小田剛一)が普遍(俳優高倉健)に生まれかわった瞬間だ(と俺が勝手に決めつける)。言うならば回心やね。ああ、俺も生まれ変わりたい。終活キリスト教研究(きっかけは映画「嫌われ松子の一生)はそういう思いの現れなんだろうと今、気がついた。

2014年11月24日(月)

俗物の反対語、霊界イエスにインタビュー、アマデウス plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 十字架の神学(贖罪論)が納得出来ないので霊界イエスにインタビュー×冨原真弓「ヴェーユ」→他人と比べる人生を極小化すること。自己贈与(愛の実践)なんて出来ないけど肉の死(癌なのか何な
posted at 04:59:30

エク定演/ベートーベン12、15番。バランスのとれたマイルド名演 quartet-excelsior.wix.com/schedule しぶちん俺がCD買うてもたよ。 pic.twitter.com/1FQNiDau9h


posted at 16:39:02

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2014年11月23日 (日)

イエス、大いに語る

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霊界のイエスにメールを何度もしてようやくインタビュー実現。以下、その実録。

Q:イエスさん、この度はご多忙中の所、まことに有難うございます。率直に伺います。

A:ああ、ええよ。俺のところに仰山メール・FAX来るんやけど、あんたのモットー「人を愛しても信じはしない」に共感して顔合わせする気になったんやから、なんでも訊いてや。

Q:ああ、そうですか。それは大変嬉しいです。そういえば、イザヤ書二章に「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。(22節)」とあるようですね。

A:ふっふっふ。よう勉強しとるやんかあ。それはともかく質問始めてくんなはれ。

Q:そうでした。では、早速。十字架の神学についてお伺いしたいんです。

聖書読むと、智慧の実により人は原罪を得てしまったのですが、原罪はイエスの死により贖われた筈なんですよ。
イエスは全人類の罪を背負い、十字架に架かった。イエスの死により原罪は贖われ、人はアダムとイヴの十字架より解放された。
だからイエスの行為(十字架に架かった事)は尊い訳で。
イエスにより人が原罪から解放されたなら、生まれてきたその時点、「原罪を背負ってない」という時点で、
分かり易い現世利益なんかくれなくっても、実は既に福音を受けてる事になる訳です。
(イエスが贖ったんだから、今の人間が原罪背負ってるはずはないって、この辺もルターの主張内容)

つまり、あなたは全人類に代わって贖罪されたことになってるのですが、いかがですか。

A:あーあ、その件か。そんなん俺は知らん。パウロやルターとかいう奴がでっちあげたんとちゃうか。

Q:そうおっしゃると思いました。では質問を変えて、どんな心境で十字架を背負われたのですか。殉教者として後世にキリスト教を残そうと考えられたのでしょうか。

A:滅相もない。キリスト教なんか俺とは無関係や。パウロが作り上げたパウロ教やで、あれは。

Q:では、ご自身の受難が世の人々に与える影響は全くお考えにならなかったのですか。

A:いや、そんなことない。俺も人間やからなあ、世間を全く気にせんと言うたら嘘になるわなあ。

Q:そうですよね。あなたは「カエサルのものはカエサルに,神のものは神に」なる名言を吐かれた方ですものね。あなたは内村鑑三をして「真理は楕円形」に導かれたと思っていたんですよ。

A:ふむふむ、ええこと言うやんかあ、内村なる男は。あんたも「我が得意の人生方程式も楕円形(世間と魂、自力と他力)、そして信仰も(神と人、義と愛)」と続けとるしなあ。

Q:いやあ、恐縮です。話を戻して、あなたが従容として受難を受け入れたのは当時の世間に、愛の信仰を広めたいとのお考えだったのですか。

A:まあね。当時のユダヤ教支配層は形式化権威化しとったからね。それに対する反発はあったよ。義と愛のバランスが生きるためには必要と俺は説いたんよ。

Q:そうすると、あなたの受難は世の中に愛を広めるための自己犠牲と考えていいでしょうか。

A:うーん、十字架の神学/贖罪論よりはマシやけどちょっと違うなあ。俺は何かのために犠牲になるとか犠牲にするなんて嫌いや。

Q:では「自己贈与」ならどうですか。

A:五十歩百歩やなあ。俺の気持ちはそんな概念的やのうてもっと切羽詰まっとったんよ。世界の不幸や苦しみを切実に味わいたい、そうでないと俺の人生が無意味になる。シモーヌ・ヴェイユとかいう女が(小難しいけど)うまいこと言うてるやろ。

Q:ああ、これですね。

隣人愛は愛する者を取り込んで所有するような愛ではなく、絶対者に対する無条件の愛を他者にも及ぼそうとするものであり、『小さく弱き者』に対する“注意力”によって隣人愛は発揮されることになるのである。神への集中した注意力こそが“祈り”であり、注意力の働いている祈りは個人の私欲に塗れた思考を停止させて、無欲かつ純粋な神(真理)を待つ待機状態を準備することになるのである。『美』だけではなく『不幸』が真理に至る道になっているというのは、不幸が個人の思考を停止させる役割を果たして、無欲・純粋な神を待つ待機状態につながっているからである。

A:そやそやそれや。自分を不幸な状態に置くことで本当の愛を実感できるんとちゃうかなあと思ったんよ。愛は憐れみや同情とちゃう。愛は実践やと胸を張りたいのもちょっとはあったかもしれんなあ。

Q:イエスさんにドーダ理論があてはまるとは驚きです。

A:当たり前やんかあ。原罪=自己愛+思考は俺にも当てはまるんよ。俺にも自己愛があるから、杭殺柱に縛り付けられ残虐な目に遭うた時はその余りの辛さに神を恨んだよ。自分で選んだ道やのになあ。

Q:エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)ですね。では、(ゴメンナサイ、きつい質問で)ひょっとして後悔されたのでは?

A:(キッパリと)それは無い。断じて無い。愛を実践するのが俺の人生やったんや。

ヴェイユ「幸福な人において、愛とは、不幸のうちにある愛する人の苦しみをともに分かちあいたいとねがうことである。不幸な人において、愛とは、愛する人がよろこびの中にいることを知るだけで満たされた気持ちになり、そのよろこびにあずかることなく、あずかりたいと望むこともしないことである」をよう噛み締めたって。俺は不幸の中で幸福(苦楽、美醜、虚実の無限遠点)やったんよ。悲惨な死を選ばねば俺の人生に決着はつかなかったんや。

Q:有難うございました。あなたの受難の意味の幾分かはお陰様で分かったような気持ちになりました。

人間は水と油のような霊と肉の構成物。偉大なイエスは受難を自ら選びとる自己贈与(愛の実践)によってその人生を終えたが、痛いの苦しいの嫌いな凡人にはそんな真似は到底出来ない。であるならばせめて我が人生の横軸の極小化を目指したい。

人生=横軸(損得、好き嫌い、善悪、理非)+縦軸(苦楽、美醜、虚実)

他人と比べる人生を極小化すること。自己贈与(愛の実践)なんて出来ないけど肉の死(癌なのか何なのかわからんが)の前に霊の決着は達成したいなあ。それが人生の目的だ。横軸においては自分が自分でなくなれ南無阿弥陀仏。

以上、読了未了だが冨原真弓「ヴェーユ」のお陰です。


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2014年11月22日 (土)

チューリヒ美術館展

Photo

サンティN響のついでに行った展覧会。沢山、作品があって面白かった。そこで、例によってGoogle+にアルバム作成、これでいつでもどこでも記憶を確かめることが出来る。

さて、この中でよくわからなかったのはシャガール「戦争」1964-66年。

炎に包まれる街は画家の故郷ビテプスクです。ヤギに似た巨大な動物が、破壊された街へ怒りの眼差しを向けています。世界大戦やユダヤ人虐殺という時代を生き抜いたシャガールです。

という評もあるが、シャガールに対する俺の先入観のせいか「怒りの眼差し」はあんまり感じられなかった。また、絵の右上隅にある十字架上のキリストは何を意味しているのだろうか。

2014年11月20日(木)

ブログを書こうとしたら「Javaアップデートを促す偽サイト」誘導頻発して閉口。ブラウザ拡張機能に入り込んだクズを屑籠へ入れたけどなお頻発。そこでキャッシュクリア、クズ掃除してなんとか収まったみたい。ググって対策記事読んだらダウンロードフィッシング誘導あり←他人は信用するな。
posted at 05:39:45

#photoikku 健さんの話は尽きず惜命忌  #jhaiku pic.twitter.com/CRl8gHFjcC


posted at 13:25:19

090」で話せる格安SIMの選び方(一覧表) trendy.nikkeibp.co.jp/article/column… IIJmioが一番良さそうに見える。
posted at 16:39:35

2014年11月21日(金)

高倉健×パスカル×シモーヌ・ヴェイユ plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 武田鉄矢→涙を流すラストシーンでは、5日間も同じ場所で“青空待ち”をしていたことから、すっかり泣けなくなってしまったが「(カメラが回る前に)健さんが急に『1ヶ月間、ロケはつらかったか?東京に帰って
posted at 05:36:06

デルモゾールG軟膏:外耳炎治療のために処方して貰ったこの薬、3日ほどでよく効いたので記録しておく。 health.goo.ne.jp/medicine/searc…
posted at 07:45:17

RT @hongokucho: バターが足りない、そして円安進行。「ぎりぎりまで値上げせずに頑張りたい」とクリスマスを控えたケーキ屋さん、NHKで。値上げしないで頑張るのは、アベノミクス・リフレ政権の抵抗勢力となる。
posted at 08:28:42

RT @hongokucho: 資本主義は勝利したのか? 「資本主義が歴史の最終章に記されるわけではない。弱者に優しく、公平で平和な世の中というのが必要だ。そうした求めに資本主義は応えられていない」(クレンツ氏・旧東独国家評議会議長)格差是正、資本主義の究極として共産主義がやってくるかもしれないし。
posted at 08:29:01

RT @miyamototooru: 翁長氏支持勢力、衆院沖縄全4区で擁立へ | 沖縄タイムス+プラス www.okinawatimes.co.jp/article.php?id… 新基地建設反対でオール沖縄の団結がさらに発展。歴史的な動きです。知事選挙につづく審判を!
posted at 11:14:25

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2014年11月20日 (木)

宗教ではなく革命こそが、民衆のアヘン

まだ途中までしか読んでないけど冨原真弓「ヴェーユ」 (Century Books―人と思想) 新書、惹きつけられてしもうた。読みやすく分かりやすく(引用されているヴェイユの文章に一部難解なところもあるが)読み応えがある。

そこで、ツボの文章を引く。

そこでは苦しみと「不幸」がはっきり区別されている。「不幸」は苦しみの特殊な一形態である。「不幸は魂を奪いつくし、魂の奥ふかくにまで食いこむような、不幸に特有の烙印、つまり奴隷状態の烙印を魂に刻みつける」という定義をもって、この論文ははじまる。p50 「神への愛と不幸」からの引用

魂は強制によって「不幸」にしばりつけられ、憧れによって自発的に美にひきつけられる。p72

ここだけ読んで「不幸から抜け出すためには美に憧れ親しむこと」という教訓を得た。そして、この教訓から

シモーヌ・ヴェイユ「労働者たちはパンよりも詩を必要とする。その生活が詩となることを必要としている。永遠からさしこむ光を必要としているのだ。 ただ宗教だけが、この詩の源泉となることができる。 宗教ではなく革命こそが、民衆のアヘンである。この詩が奪われていることこそ、あらゆる形での道徳的退廃の理由だといっていい」

「宗教ではなく革命こそが、民衆のアヘン」を我が言葉とするべく、続きを読む所存なり。

2014年11月19日(水)

沖縄も原発も争点にしない選挙っていったいなんやねん plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 塩川徹也「パスカル『パンセ』を読む 」読了。原罪(自己愛→邪欲)にも拘らずなんとか社会を維持している人間たちよ、目覚めよキリストにそして己の悲惨・偉大に、とパスカルは言いたかった
posted at 05:04:50

#photoikku 冬ぬくし他人に回す請求書  #jhaiku 沖縄、原発、財政危機。借金はいつか払うよ今日の酒 pic.twitter.com/QrGwHZH6zG


posted at 05:26:06

#photoikku 冬耕や寡黙を演じ逝きし人  #jhaiku pic.twitter.com/l0SZzGu1Um


posted at 07:37:25

RT @octavian_op59: イスラエルフィルのホルンのサンタさんみたいなおじさん、サントリーで聴いたチャイ5もすごかったけどマーラーもすごい。おひとり突出してスケールが違ってた。体格も音も吹く角度も。
posted at 11:56:04

NHKが国会中継を中止、「マッサン」の特番を流した理由とは? huff.to/1uH0LhS 「平性を担保するために委員会の審議は全会派が出席したときのみ国会中継をする」ことになってるそうな。
posted at 15:51:50

価格.com - ASUS ASUS ZenFone 5 16GB SIMフリー レビュー評価・評判 review.kakaku.com/review/J000001… 評判良さそう。
posted at 18:17:07

#photoikku ハンドルをいろはにほへと紅葉坂  #jhaiku pic.twitter.com/4jCU9Y8YEP


posted at 19:41:31

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2014年11月19日 (水)

明日の句会準備

冬ぬくし他人に回す請求書
◯冬耕や寡黙を演じ逝きし人
◯日々読書夜毎の酒や冬の草
◯人が邪魔あんたも要らぬ紅葉狩
◯我が侭に生きて強羅の冬桜
月給も賞与も手に無し冬の薔薇
じゃんけんで負けて泣いたよ冬紅葉
◯短日や今日も歩きし一万歩
◯肛門に入れるカメラや冬に入る
◯ハンドルをいろはにほへと紅葉坂
長生きをさせて下さい神の留守
還暦のデュークエイセス冬ぬくし
生き甲斐は死に甲斐のこと冬の蝿
夕食はスープ一杯冬満月

2014年11月17日(月)

RT @komakusaryama: 【こころの時代】内村は娘を失って、三浦半島を散歩しているとき、桶づくりのひとをみる。「我はよきつよき桶をつくりてはなはな安泰である」、、後世の最大遺物のころは清い欲はのこってた(聖書学者になろう)、ルツの死はそれもうしなってきてて、少しは人間なのでのこってるが #etv 
posted at 04:25:08

現世と後世「我は家に在りて善き桶を作る」、カルミナ plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… Eテレが毎月1回再放送しているこころの時代「内村鑑三」。昨日は「現世と後世」。死んだら人生そこでお仕舞いと考えるな(サミシイじゃん)。後世があるじゃん(来世とかあの世とか天国とかでは
posted at 05:13:52

#photoikku 日々読書夜毎の酒や冬の草  #jhaiku pic.twitter.com/H4Wv5bZwDf


posted at 06:16:18

#photoikku 小春日や次の検査は六年後  #jhaiku 大腸内視鏡、毎年を覚悟していたのに「次はオリンピックの頃だって。拍子抜けなり。」 pic.twitter.com/S0InBUPzYp


posted at 11:03:21

辻井伸行の作曲レベルが低いと感じるのは私だけですか? detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… #知恵袋_高低は置くとしても…。
posted at 19:53:52

『辻井伸行×加古隆×レ・フレール THE PIANIST~作曲家たちの心音~』 www.bsfuji.tv/top/pub/pianis… 表層を舐めて音楽美しき辻井伸行殻破りなさい
posted at 20:17:56

2014年11月18日(火)

われらの内なる道徳律とわれらの上なる星空 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 多摩南部地域病院までウォーキング、先日の大腸内視鏡検査結果受診/毎年検査を覚悟していたのに「次の検査はオリンピックの頃でいいでしょう」に拍子抜け。ともかく慶賀。
posted at 05:13:48

RT @kojiskojis: 11月17日の報道ステーション。翁長知事が安倍首相に言いたいこと。「『日本を取り戻す』という中に沖縄は入っていますか?『戦後レジームからの脱却』というが、沖縄については『戦後レジームの死守』ですか?」。
posted at 05:15:04

RT @NTPIG: @NTPIG: 11月22日調布市民オペラ《椿姫》フローラ役で出演します♪15:00開演@調布グリーンホール ♡いい夫婦の日です♡チケット残り少なくなっております、是非いらしてください♪♪ pic.twitter.com/1iCxpREzld
posted at 16:23:19

RT @FATE_SOSEI: 【ひでぇなこりゃ】安倍晋三 内閣総理大臣による記者会見の模様 11/18(火)19時10分 質疑応答 youtu.be/8QJPn2ZLUXY #安倍を倒せ #解散総選挙 都合悪い事には一切触れてないね。原発再稼働の是非もだし、知事選の結果を受けての沖縄基地問題、どうなわけ?
posted at 20:09:30

RT @jaikoman: 自民党安倍政権が進めている賛否両論ある経済政策も 今回の選挙で国民に問うそうだ。これではっきり。安倍は1票格差をないがしろに沖縄、原発、特定秘密、賭博、ありとあらゆる利権絡む政策を、全て経済に直結する問題だと言うことで強行するぞ。そう宣言したも同じ。NHKの頓珍漢な解説…
posted at 20:16:53

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2014年11月17日 (月)

「人間、死んだらタダのゴミ」と考えるな

Eテレが毎月1回再放送しているこころの時代「内村鑑三」。昨日は「②現世と後世」
全文起こし記事からエンディングだけをコピペさせて頂く。

この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。
(『後世の最大遺物』改版)

死んだら人生そこでお仕舞いと考えるな(サミシイじゃん)。後世があるじゃん(来世とかあの世とか天国とかではない、希望の国あるいはイエスの言う神の国?)。それを希望にして「我は家に在りて善き桶を作る」。これが内村の生き方及び死に方だったと感じた。

多分、それは内村の再臨思想にもつながっている。「人間、死んだらタダのゴミ」と考えるな。

2014年11月16日(日)

ユダヤ教及びキリスト教心髄理解 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… ユダヤ教は「神の約束とそれに対する人間の無条件の信仰」の宗教。そして、これに加えてキリスト教は「イエス・キリストのこの世への到来と人間に代わる受難と復活の福音」の宗教。
posted at 05:12:23

増俳 zouhai.com 「人生の生暮れの秋深きかな」永田耕衣。生煮え観念俳句なれど、他人様の心境は測り難し、軽々に云々するべからずとも。その点、人と人のつながりの間に神(造物主及びキリスト)を立つるキリスト教は甚だ実際的かも。人を愛しても信じはしない。posted at 05:44:42

#photoikku ブランドに舌の痺れや小春の日  #jhaiku 町内会にて獺祭拝飲するもスパークリングの為か、それとも余りの怖れ多さの故か、味よう分からず。 pic.twitter.com/VyNywocxIf


posted at 12:01:26

@8mevius コメ感謝他力感謝です。
posted at 18:10:43

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2014年11月16日 (日)

再臨はキリスト教徒にとって当然の信仰

新保祐司「内村鑑三」継続読書、再臨についてが少々わかりにくいが、「神の約束と人間の信仰」なるキーワード発見。それを頼りにググって次の記事。長いけどコピペ。

しかし、新約聖書が伝えるのはその復活の奇蹟にとどまらないのです。復活したイエスは、四十日間弟子たちと共にあったのですが、その後天に昇られる。イエスが天に上げられ雲に包まれてその姿が見えなくなったとき、残された使徒たちに、御使いが次のような約束を告げます。

 「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

(使徒言行録1・11)

 キリストは再びこの地上に来臨される。それは宇宙的な出来事として、将来にかならず起こり、救いはその時に完全に成就するというのです。この「終末」の時を待ち望み、そのことによってこの地上の生命を充実したものとすることができる。キリスト教では、これを終末論といいますが、内村鑑三は近代のキリスト教会があまり積極的に語らなくなった――しかし、聖書にははっきりと記されているこのキリスト再臨の信仰の大切さを再発見したのです。異邦の地にあって、日本人の一人のキリスト信徒として、この初代の教会の人々、パウロたち使徒が真理として信仰したイエス・キリストの再臨、再来を、聖書の最終的な秘義として信じたのです。いや、のみならず、一九一八(大正七)年から一年半にわたって、再臨信仰を日本の各地を巡って伝道します。

 内村がどうして再臨信仰に至ったのか、それは彼自身の聖書研究の深まりがあったのはたしかですが、それだけではなく時代と世界の情況が深く関わっていたと思います。つまり、第一次世界大戦という巨大な戦争がヨーロッパ、キリスト教の文明国において起こったことです。それはまさにキリスト教国ばかりでなく、世界の危機でした。そういうなかで、聖書が証しする真理に、あらためて耳を傾けたのです。

 同じことは、ほぼ同時期にスイスの牧師であった、カール・バルトにおいても起こりました。バルトもまた千九百年の時をこえて、初代の使徒たちの言葉を改めて聞き直したのです。そして、近代のキリスト教会が語らなくなった終末論の信仰を、生き生きと語り直してみせたのです。バルトの『ロマ書』(一九一九年)という著作がそれです。

 内村とバルトという、洋の東西のクリスチャンが、二十世紀の前半に、パウロの信仰と精神を現代へとよみがえらせたのです。

 さて、文学の方へ話を移していきたいと思いますが、内村鑑三は先程いいましたように、無教会というキリスト者の集まりを形成しましたが、明治以降の文学者たちにも少なからぬ影響を与えています。正宗白鳥、志賀直哉、有島武郎らは直接に内村と接していますし、その他にも太宰治など、内村に会ったわけでもないのですが、彼の著作を熱心に読んだ文学者がありました。それはやはり内村という信仰者の強烈な個性と、そこから発せられる自己をこえた超越者(神)への信頼からくる、言葉の力によるものだったと思います。

 正宗白鳥は自然主義作家として文壇で活躍した人ですが、太平洋戦争後に『内村鑑三――如何に生くべきか――』という評論を書いています。昭和二十四年のことです。そのなかで注目すべきは、内村の再臨信仰について言及している点です。

 「私が内村のこれ等の説(再臨・復活)に共鳴しようとすまいと、彼がそれを生存中の大問題としたことに、私は重要な意義を認めようとするのである。如何にして生くべきか、或ひは如何にして死すべきか、それを機縁として私は考へるのである。」

 七十歳の正宗白鳥は、若い頃に植村正久牧師から洗礼を受けていますが、内村の信仰にも強い関心をよせていたのです。しかし、敗戦を体験し荒廃のなかにあった戦後の日本のなかで、白鳥はとくにその再臨信仰に重要なものをはじめて見出したのです。

 「内村の再臨演説は一時、若い聴衆を感激させたとは云へ、感激した聴衆のうちに、再臨感を持続したものは殆んどなかったであらうと推察される。(中略)キリスト再臨なんか考へるのは、狂的な考へであると見做してゐるらしい。しかし、人間救済のために十字架に上りしキリストを信じる以上は、再臨を信じるのはあたり前の事で、奇矯でも何でもないのである。根本の一つを信ずれば聖書全体がそのまま信じ得られるのである。(中略)今日のような時世こそ、キリスト再臨は最も期待されるべきである。」

アブラハムの生涯(特にイサクを神の命ずるままに生贄として従順に差し出そうとしたこと)などを思い起こすと、まことにユダヤ教は「神の約束とそれに対する人間の無条件の信仰」の宗教。そして、これに加えてキリスト教は「イエス・キリストのこの世への到来と人間に代わる受難と復活の福音」の宗教。

そして、上にあるように、聖書に再臨が書かれている以上(使徒言行録1・11)、再臨を信じるのはキリス地教徒にとって当然のこと。なんら不合理なことではないと得心した。神もキリストも信仰出来ないけど、信仰の人について(例えば正宗白鳥)もっと知りたい、読みたいと考えた次第なり。

2014年11月15日(土)

箱根美術館紅葉狩り plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 天気がよかったので箱根紅葉狩り。129→小田原厚木道路→湯本→強羅。帰りは御殿場に出て246→129と高速代節約。拙い写真はこちら。
posted at 05:17:58

RT @akichan58: @tokunagamichio @fuk_h 会談と言ってるのは日本政府と提灯メディアだけ。中国は最初から面会と言っている。背景に両国国旗が無いのを見ても明らかで安倍が握手写真を撮りたかったに過ぎない。
posted at 07:29:59

RT @tokunagamichio: 言えてる。(日刊ゲンダイより) pic.twitter.com/5D2mpMCWW6
posted at 07:30:19

RT @boyakuri: ブログ更新済。 【「アンカー」解散総選挙へのシナリオ&マンガのような北京APECと日中首脳会談】 kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2… 青山繁晴さん解説書き起こし。首脳会談の直前交渉で中国側「握手やめたい」。子供か! pic.twitter.com/f09mgebsgN
posted at 07:31:24

RT @wavechart: <サンゴ密漁>中国船団の謎 日中首脳会談当日に急減(毎日新聞) - Y!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141114-… 日本の法律かわ密漁に甘すぎる。官僚、政治家が何もしてこなかったことと、安全保障をなにも考えていなかった。他人事としかかんがえていない脳なし。
posted at 07:36:51

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2014年11月15日 (土)

箱根美術館

201411150441_3719_iphone.jpg

天気がよかったので箱根紅葉狩り。箱根美術館で庭と広重(広重の東海道五拾三次は、30数種類の版があるが、その中でも「保永堂版」は最高のものだそうだ。藍色が深かった)、強羅公園で冬薔薇を楽しんで来た。拙いGoogle+アルバムはこちら

ところで箱根美術館はMOA美術館と同じ経営ということを今回知ったのだが、MOAとは創業者「茂吉岡田アソシエーション」の略と案内のご婦人が教えてくれた。ウィキにはMOA Museum of Art とあるが。

2014年11月13日(木)

エロイカ、水と油のような霊と肉、言行不一致口先男 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 肉は社会で暮らし、魂は霊として生きる。だから、この二つは水と油。そしてこの二つを結びつけるのが自己(責任)。山本圭は「環境の改善と生命の再生産」なる生きる意味ならぬ社会の存在意義を生き
posted at 05:17:09

RT @fujiokashin: オバマと延べ9時間にわたって会談した習近平、オバマと寿司屋に行き「オバマは仕事の話ばかりする」と愚痴った安倍。
posted at 05:22:31

RT @PenseesBot: わたしは、人間を褒めると決めた人も、人間を貶めようと決めた人も、また気晴らししようと決めた人も等しく非難する。わたしが肯定できるのは、呻きながら求める人だけである。(断章四二一)
posted at 07:51:35

#photoikku じゃんけんで負けて泣いたよ冬紅葉  #jhaiku pic.twitter.com/5hknXbilDR


posted at 09:25:21

2014年11月14日(金)

ペチャワ「わが青春の輝ける日々よ」、ソビエト連邦 最後の日々 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… ソ連解体前のバルト三国独立、エストニアへの軍事介入があったなど殆ど忘れていた。そしてまた、ベロヴェーシの森の陰謀などは全く記憶の向こう側。薄れる記憶も問題だが、その当時、ソ
posted at 05:08:25

#photoikku 渋滞を抜けて強羅の冬紅葉  #jhaiku 箱根美術館庭紅葉狩なう。 pic.twitter.com/7pnQPMbY1G


posted at 10:48:49

#photoikku 人が邪魔あんたも要らぬ冬紅葉  #jhaiku pic.twitter.com/80yCKa2jij


posted at 10:56:33

#photoikku 我が侭に生きて強羅の冬桜  #jhaiku pic.twitter.com/83bfLg8Xl1


posted at 12:36:17

#photoikku 月給も賞与も手に無し冬の薔薇   #jhaiku 思わぬベストショット。 pic.twitter.com/NFthIzQqAe


posted at 21:03:20

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2014年11月13日 (木)

水と油のような霊と肉

若者たち 三部作 DVD-BOX 若者たち 三部作 DVD-BOX
山内久


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昔懐かし「若者の旗」うざい兄弟ディスカッション&喧嘩映画。金とセックスの亡者になった末弟松山省ニに左翼理論家山本圭が教訓を垂れる。生きることの意味は環境の改善と生命の再生産だぞ」

その瞬間ナルホドと思ったが暫くして森有正を思い出した。

この水と油のような二つの世界、霊の世界と肉の世界、この二つをアブラハムの生ける人格だけが結びつけて支えている。私はこの二つを結びつけて支えることを『責任』と呼びます。それ以外に呼びようがない。責任ということは何だ、いろいろなことを皆言いますけれども、根本は霊としての私どもと肉としての私どもと、この二つを私どもの中において一つに結びつけてしっかりと握って離さない、それが私は責任ということの一番深い意味だと思います。神に対して責任を持つ、人に対して責任を持つ、それは具体的にはどういうことですか。それは私どもの中にある霊と肉の二つをしっかり握って、霊を裏切らずに肉の生活を全うすることでしょう。それ以外に責任という言葉はどこにも使いようがないでしょう。それはたとえどんな小さな責任でも本質は同じことです。

そうなんだ。
人間=社会(損得、好き嫌い、善悪、理非)+魂(苦楽、美醜、虚実)

肉は社会で暮らし、魂は霊として生きる。だから、この二つは水と油。そしてこの二つを結びつけるのが自己(責任)。山本圭は「環境の改善と生命の再生産」なる生きる意味ならぬ社会の存在意義を生きる意味として霊に押し付けようとする。それでは松山省ニが納得しないのも当然だ。社会から人間を抽出しようとするのが左翼(アベコベに気付かぬ人たち)。

人生は固有から普遍への旅、神にも人にも責任を果たしつつ、霊を裏切らずに肉の生活を全うする。

が生きる意味なのだから。おお、俺は山本圭を乗り越えたぞ。

ところで、書かれた言葉と実際の人間森有正との間には、少なからぬギャップがあったとのこと。

「完璧、堅固、誠実、密度、強度」という座右銘を掲げ、「茶碗一つ正しく洗えない人間を僕は信じない」と書いているが、しかし辻邦生の言葉を借りるならば、「おそらく先生の理想はそうだったろうが、実際には、思想のデーモンが先生にとり憑いていて、身のまわりを構う暇がなかった」。東京でもパリでも、彼の住んでいた部屋がいかに乱雑であったかは家族や友人たちの証言するところである。また森と十年のつきあいのあった栃折久美子は、「書かれたものだけ読んでいたのでは、私には想像もできなかったような非常識、自分勝手、言動の矛盾、金銭感覚、……」と人間森有正を評している。彼はまた、その孤独で沈痛なエッセーの調子とは裏腹に、親友であった木下順二からは「日本三大おしゃべり」と呼ばれるほどの座談の名手であった。辻邦生も「先生ほど冗談やいたずら好きな人もなかった。…… 先生ほど生きることを大切にし、それを愛された人はなかったと思う」と述べている。また「森先生を夕食に招くとき、私たちはいつもの三倍くらい御飯を炊いた」と石井好子も書いているように、彼は知る人ぞ知る健啖家であった。

好きやなあ、こういう口先男。森有正を益々読む気になったわ。

2014年11月12日(水) 

クヴィエチェン、森有正を読めるのは図書館のお陰 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 「内的促し」による出発、信仰と信頼の違い、感情というものに対する人間の大きな秘密、責任ある生き方/後ろ向きに歩く人生。 以上、神の実在は信じないけど責任ある生き方(誰に対して?)はしたい
posted at 05:10:11

#photoikku 短日や今日も歩きし一万歩  #jhaiku pic.twitter.com/nrs8cwG3xQ


posted at 10:36:03

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2014年11月11日 (火)

「アブラハムの生涯」Ⅳ死と墓 Ⅴ平和の王

アブラハムの生涯―森有正講演集 (1980年)読了。

妻イサクが亡くなって墓の土地を取得する際に、無償贈与の話を丁重に断って相当の高価で買い入れたアブラハム。土地取得は肉の世界の話、信仰は霊の世界、この両者をきっちり区分けした物語を森有正は次のように評価する。ググって牧師説教からコピペ。

信仰者はこの地上において、二つの世界を同時に生きていると言うことができます。神様との関係における霊の世界と、この世の社会生活、人間関係における肉の世界です。信仰者といえども、霊の世界だけを生きることはできません。また、日曜日は霊の世界を、週日は肉の世界を生きる、という使い分けもできません。常にこの二つの世界の緊張の中で、片方のみに埋没してもう片方をないがしろにしてしまうことなく、いずれに対しても誠実に生きることが、旅人、寄留者としての信仰者の姿なのです。

責任ある生き方
 森有正というキリスト者である哲学者が、アブラハムの生涯をテーマに語った講演集である『アブラハムの生涯』という本があります。その中の、この23章についての講演にこのように語られています。「この水と油のような二つの世界、霊の世界と肉の世界、この二つをアブラハムの生ける人格だけが結びつけて支えている。私はこの二つを結びつけて支えることを『責任』と呼びます。それ以外に呼びようがない。責任ということは何だ、いろいろなことを皆言いますけれども、根本は霊としての私どもと肉としての私どもと、この二つを私どもの中において一つに結びつけてしっかりと握って離さない、それが私は責任ということの一番深い意味だと思います。神に対して責任を持つ、人に対して責任を持つ、それは具体的にはどういうことですか。それは私どもの中にある霊と肉の二つをしっかり握って、霊を裏切らずに肉の生活を全うすることでしょう。それ以外に責任という言葉はどこにも使いようがないでしょう。それはたとえどんな小さな責任でも本質は同じことです」。

水と油のような二つの世界、霊の世界と肉の世界を結びつけて支える責任、この言葉に惹かれて責任方程式をひねり出し本書を読むことになったのだ。世間は自力合理的分別で暮らし、魂は他力無分別に生きるべしという我が人生観にぴったりなのだ。

そして、もう一つの収穫。森によると、ある有名な詩人の言葉だそうだが、ググっても不明だった。

人生というのはちょうど後ろ向きに歩いてゆくようなものだ。過去にどんな所を歩いてきたかということは、後ろ向きに歩いてゆけばよく見えるけれども、どういう所に進んでゆくのか、後ろに深淵が待っているのか、それは一切分からない。自分の道は間違えていて、その道は深淵の中に落ち込んでしまうのかも知れないけれども、後ろ向きに歩いていて絶対に正面を向くことはできないから、私どもは見ることができない」p158

かくして、世間を自力合理的分別で後ろ向きに歩き、魂は主を仰いで歩く。まだ俺に回心は来たらないがそんな生き方をしよう。生きる意味を噛み締めつつ。

人生は固有から普遍への旅、神にも人にも責任を果たしつつ、霊を裏切らずに肉の生活を全うする。

2014年11月11日(火)

大腸クリーンアップ、信仰は感情激発のブレーキ、大統領の料理人 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 人間はその自由な決断(内的促し)によって運命(生きる目的)を発見する。それが信仰だと理解した。汝弱き者よ、そこまでの覚悟がお前にあるか?
posted at 05:11:43

RT @sohbunshu: 中の悪いプーチンとオバマの間に立つ訳も行かない習近平。奥さんを挟むアイディアが悪くない。 pic.twitter.com/t0R8IfaAwf
posted at 09:00:10

ある有名な詩人の言葉とのことだがだが、誰?→「人生というのはちょうど後ろ向きに歩いてゆくようなものだ。過去にどんな所を歩いてきたかということは、後ろ向きに歩いてゆけばよく見えるけれども、どういう所に進んでゆくのか、後ろに深淵が待っているのか、それは一切分からない」
posted at 09:01:33

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2014年11月10日 (月)

「アブラハムの生涯」Ⅲモリヤの山

創世記22章

9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」 13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。 14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

神はアブラハムを約束の地に導き、イサクという叶わぬ筈の息子まで与えたが、今度はそのイサクを生贄として差し出せと命じた。信仰篤きアブラハムが神に何一つ訊こうともせず従順に従おうとしたその刹那、神はそれを差し止めた。

森有正はこの物語を下のように読み解く。

出発は、私たちを縛り、子どもの状態にしていたものから、促しに従って自分の良心に従って、自分の歩みを始めることである。従ってそれは自由の瞬間である。しかし、人間は神との契約に入ると、今度はその自由を失うのである。生きるも死ぬのも、そこにおいてしなければならなくなる。社会で生きるということはこの自由を失うことである。人間はそうでなければ、本当の生きがいを見出すことはできない。新しい契約を結んで、約束の地に入ることは、その人の名前が新しい意味を持ち始め、名前が変わり、もうほかの人では代わることの出来ない人間になる。公的なものになり、社会的なものになる。本当の社会というのは、自分の目標、自分の仕事、自分の目指すところのものと契約関係に入った大人が、相互にかけがえのない成員として形成するものである。人間が契約を通して自分の生きる目的のためにもはや自由ではなくなる。その中ですべてを捧げなくてはならなくなる。そういう契約が一人一人に決定する時、本当にすべての人が同じ権利をもち、平等となり、すべての人が人格を持って接することができる民主主義社会が出現するのである。

約束の地へのアブラハムの出発は「自由の瞬間」である一方、神との契約により彼は「自分の生きる目的」を設定し、自由を失う。これが全ての人が平等となり人格を持って接する民主主義社会だという(まあ、理想型ではあるな)。

なんでここまで厳格な契約で人間を縛ろうとするねん?という疑問に対して森有正は答えを用意している。それは

人間の感情はそれ自体にまかせられると必ず悪化し、激化し、自らを破壊するに至る、と私は考えています。ですから、人間の感情、個人的なでも、あるいは愛のような感情でも、あるいは破壊的なもっとも大きな感情でも、何か自分の運命と絶えず接しているところにそれを置かなければならない。これが感情というものに対する人間の大きな秘密だと思います。p108 

何か自分の運命と絶えず接しているところにそれを置」くこと、それが神との契約(運命)だと思う。人間はその自由な決断(内的促し)によって運命(生きる目的)を発見する。それが信仰だと理解した。汝弱き者よ、そこまでの覚悟がお前にあるか?

2014年11月10日(月)

検査食そして断酒、倶会一処、ジャッキー・ロビンソン plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 信仰は根拠・理由のなき内的促し(経験)ということだ。そんな内的促しの訪れを神の恩寵(回心)と考えておけば、俺にもいつか回心があるかもしれない。
posted at 05:26:07

内視鏡検査終了0ポリープ慶賀^_^
posted at 13:30:37

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2014年11月 9日 (日)

「アブラハムの生涯」Ⅱ約束の地

創世記15章

15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

これがアブラハムの信仰。そして、森有正は信仰と信頼の違いについて下のように書いている。

信仰と信頼は別物である。信頼は、裏切られたと言う言葉を伴うが信仰は裏切られると言うことは起こらない。信頼とは、問い詰めていくと、信頼する根拠をその人自身の他のものに信頼している事である。たとえばお金持ちだから、困ったときはお金をくれるであろうとか。根本において何かを当てにしている。
しかし、アブラハムは神への信頼ではなく、神を信仰していた。
それは「アブラハムはこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」(ローマ人への手紙4章17,18節)。
アブラハムの出発はこういう信仰によってのみ正しく理解される。内的な促しというのは、こういう人間の状態をさす。

信仰は内的な促し。だから、信仰にはそれ以外の根拠はなく、裏切られることもない。なるほどなあ。

そしてまた、信仰に理由も要らない。

私は、ある人が、これは大変に尊敬に値する方でありますが、お釈迦様とか、それから孔子とか、そういう人たちの言い、書き残したものを読んで、整理して、これは仏様の教説である、これは孔子の倫理思想である、というように非常にまとまった学問的な論文を書いたことがあります。それで私にそれを下さいまして、その方は私より少し後輩に当たる人で、私に意見を求めました。その時私は申し上げたのです。私は学問的に、そういうものを批判する資格は全然ないのですけれども、その本を見ると、仏様も孔子もみんな分かってしまうのです。どういう原理から出発して、どういう説を立てて、どういう論理がそれを支配しているか、非常に手に取るように分かる。けれどもそれは、それを理解した人の経験から出てくるものにすぎない。ところが、釈迦とか、ソクラテスとか、そういう人がどういう経験を持っていたか、どういうものを見ていたか、それを私どもは決して知ることができない。彼らの書いたものから察しますと、人間の経験にはすべて肉眼で見るように地平線がありますが、その地平線から先はどうしても見ることができないのです。ところが、高い山があって、その上に人が立っています。それは私どもの見ることのできない地平線の向こうを見ています。その向こうを見ている人が、何かを言ったり書いたりすると、私どもはそれを理解しますけれど、その中に私どもの理解を超えるところが出てくる。それは私どもの見ないものを見ているからです。それを私どもの知恵でもって一つの理論の体系にしたり、組織したりするということは間違いです。むしろそういう私ども人間の経験の、限界である地平線の上に立って、その向こうを見ている人が何人かおりますが、その人から私どもはただ謙遜に学ぶ以外には何もできないのです。
 ここで一つ、これはこういう問題とは直接関係はないのですけれども、十四、五年前に死にましたアランというフランスの偉い哲学者がおります。皆さんもその全集が日本で出ておりますから、お読みになった方が非常に多いと思います。そのアランが書いております。「すぐれた人の本を読む時に、私のただ一つの方法がある。それはその書いたものは決して間違えていない。間違いを絶対に含んでいないという確信のものとにその本を読みだす」と。そうすると、私どもが自分でもってその本を判断しようとして読んだ時よりも、実に多くのものがたくさん分かってくる。この本に書いてあることは正しい。もし分からないことがあると、その人が書いたいろいろな本を読んで、その分からないことを理解しようとする。

信仰においては信じることが先立つことが前提。だから、神は神を従順に信じたアブラハムを義とした。また、他者の経験(固有から普遍への旅)の中にはその立ち位置の高さ故に理解し難いものがあっても謙虚に学ぼうとする以外にはない(もっと言うと、経験はどんなものであってもその固有性故に完全な相互理解は不可能)。

つまり、信仰は根拠・理由のなき内的促し(経験)ということだ。そんな内的促しの訪れを神の恩寵(回心)と考えておけば、俺にもいつか回心があるかもしれない。

2014年11月09日(日)

アブラハムの生涯、戸手教会、白龍館ライブ plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 外国に行くことはもう(多分)無いけれど、せめて書物と音楽とネットの中では外国を知ることに努めよう。人生は固有から普遍への旅、神にも人にも責任を果たしつつ、霊を裏切らずに肉の生活を全うするのが我
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#photoikku 肛門に入れるカメラや冬に入る  #jhaiku 明日の大腸内視鏡に備えて今日は検査食。そして断酒(−_−;) pic.twitter.com/3brssghd29


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#photoikku 長生きをさせて下さい神の留守  #jhaiku pic.twitter.com/nkHqcfdk9j


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#photoikku 還暦のデュークエイセス冬ぬくし  #jhaiku pic.twitter.com/EfuDPVLUcY


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デューク・エイセス吉田一彦、病気療養で活動休止 全国ツアー初日に発表 - SANSPO.COM www.sanspo.com/geino/news/201… テレビを見ててあれ?と思った。お大事に。
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RT @PenseesBot: 人は精神が豊かになるにつれて、自分の周りに独創的な人間がより多くいることに気がつく。しかし、凡庸な人というのは人々のあいだに差異があることに気づかない。(断章七)
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#photoikku 生き甲斐は死に甲斐のこと冬の蝿  #jhaiku 写真は昼の検査食。こころの時代~宗教・人生~「わたし流 理想の末期の迎え方 pic.twitter.com/1i5mcO3fht


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#photoikku 夕食のスープ一杯冬満月  #jhaiku さあ、明日は大腸内視鏡検査。 pic.twitter.com/3P0Xlentm8


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アブラハムの生涯

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アブラハムの生涯―森有正講演集 (1980年) 読書開始。創世記12章によると

1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。


これを森有正は「内的促し」による出発とする。

「内面的促し」というこの言葉は哲学者森有正の造語である。彼が考える「実存」や「経験」が始まる事を可能にするものがこの「内的促し」である。この心の中に起こる「促し」は、ある人には「志」として現れ、ある人には消極的な「不満」や「倦怠」や「不安」や「不充足感」として「自分があるべき状態にない」と感ずる感情の状態として現れる場合もある。この「促し」はその人の存在全体を方向づけるもので、これを意識して自覚的に生きることを「実存」という言葉で名辞している。偉大な思想家も普通人も皆同様に一人一人この「促し」に基づいて自分自身を生きていくこと、これだけが絶対の現実なのであると述べている。

俺が我がブログ「責任方程式」を思い起こしながらプールで泳いでいたら、そうだ、そうなんだ、人生の意味に思いが至ったのだと改めて感じたのも「内的促し」だったのかなあ。

何も保証されない、無の中に何かを求めて出て行く冒険の思想の典型的な型がここには描かれている。ヨーロッパ文明の一番古い基礎の一つがアブラハムの姿の中に現れている。冒険の文明の反対が同化の文明であり、日本は同化の文明である。自分がきちんとあって自分に合うものを外からみんな取り寄せて自分の役に立たせてしまう。日本の文明には冒険の思想が根本的に欠けている。

外国に行くことはもう(多分)無いけれど、せめて書物と音楽とネットの中では外国を知ることに努めよう。人生は固有から普遍への旅、神にも人にも責任を果たしつつ、霊を裏切らずに肉の生活を全うするのが我が人生の意味なのだから。

2014年11月08日(土)

高尾山相模湖、ハンガリー首相の発言、ロシアの言い分 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… クロ現「ベルリンの壁崩壊から25年」で新発見2点。(1)恐ろしい発言をする人がハンガリーの首相(2)ロシアにはロシアの言い分あり
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開店待ち、はよ開けてえなあ。 pic.twitter.com/mYrUd7G4to


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2014年11月 8日 (土)

考える葦

NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセ NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセ
鹿島 茂

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ (NHK「100分de名著」ブックス) NHK「100分de名著」ブックス アラン 幸福論 (NHK「100分de名著」ブックス) パンセ (中公文庫) NHK「100分 de 名著」ブックス ブッダ 真理のことば (NHK「100分de名著」ブックス) NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

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 100分de名著「パスカル パンセ」鹿島茂読了。有名な「考える葦」断章全文をコピペしておく。

第六章 哲学者たち
347
人間はひとくきの葦(あし)にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに 十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

考えることは人間の原罪でもあるが、他方、人間の尊厳の基礎でもある。パスカルは短調(暗さ)と長調(明るさ)の入り交じった人生達人であることが分かったのが収穫だった。俺も明るく死に向かって歩こうね。

2014年11月07日(金)

東奔西走、原罪=自己愛+思考。完璧映画評 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… ゆうとり/ところがクリスマス行事のため予約不可(12月予約はこれがあるんだあ畜生、前日に電話確認するべし)→唐木田/タッチの差で先約されてた残念→トムハウス/句会に取り敢えず出句→貝取/空いて

posted at 05:09:49

クロ現:ベルリンの壁崩壊から25年① www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/… <ハンガリー オルバン首相「自由や民主主義の原理でできた社会は、これからの世界で競争力は維持できない。 国際的に成功しているのは、シンガポール、中国、インド、ロシア、トルコだ。>これにはビックリ。
posted at 17:57:46

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2014年11月 7日 (金)

「野火」12月号投句

○穴惑スマホ画面の創世記
○秋の声草野心平文学館
天才の善人顔や天さやか
傘片手カメラ片手の初紅葉
○秋澄むやインターネットで読むヨブ記
○ななかまど日野原重明百三歳
○十三夜モネマネゴッホルノワール

2014年11月06日(木)

ギマディエワ、五嶋みどり、パスカル plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 途中まで面白く読んでいたのにパンセに触れる部分から急に難しくなったので投げ出し気味読了。口惜しいので(歩数稼ぎもあって)図書館へ、世間は自力合理的分別に暮らし魂は他力無分別に生きたしという我が信念
posted at 05:23:51

ブラックホール化する日銀の国債購入|Reuters jp.reuters.com/article/jp_col… 「より合理的な見解は、高齢化する日本社会には大幅なインフレは訪れないというものだ」を信じられない高所恐怖症。いつか天罰インフレが来たりそうな不安感を禁じ得ず。
posted at 17:25:53

RT @kazuyuka13: 今夜のEテレ #オイコノミア 「障害と経済学」母と観ていて思わず唸る。 「依存先が多い=自立」、これには確かに納得。私はとても無自覚に生きてたなぁ…。しかも障害のある方には「依存できるところが1つでもあるかどうか…」というコメントが胸に刺さる。来週も必見。
posted at 17:43:41

RT @yuki_mutsumi: パレート効率(経済学における資源配分の概念):誰かの満足度を下げることなしに、他の誰かの満足度をそれ以上上げられない状態=効率的と考える。 (オイコノミア)
posted at 21:23:46

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2014年11月 6日 (木)

原罪=自己愛+思考

NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセ NHK「100分de名著」ブックス パスカル パンセ
鹿島 茂

NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラ (NHK「100分de名著」ブックス) NHK「100分de名著」ブックス アラン 幸福論 (NHK「100分de名著」ブックス) パンセ (中公文庫) NHK「100分 de 名著」ブックス ブッダ 真理のことば (NHK「100分de名著」ブックス) NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧

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原罪は煩悩(自己愛)と俺なりに理解していたのだが、100分de名著「パスカル パンセ」鹿島茂を読んで、これに思考を付け加えることにした。理由は以下(放送内容を文字起こししてくれている記事からコピペ)。

ナレーション:「人間は誰しも生まれた瞬間から“死”という壁に向かって進んでいます。その真実を見ないようにするため、人はありとあらゆる“気晴らし”によって 目隠しをするのです。
こうした気晴らしを 耐えず作りだすことで 人間は安心して“死”という壁のほうに進んでいる。パスカルは そう考えました。」
鹿島:「人間は何故“死”を恐れるかというと、死そのものは恐くない。あるとき突然きたら それでおしまいなんだから。だけど 死のことについて考えることが 死よりももっと恐い っつんですよ。」
伊集院:「人間は 死のことを考える という能力を持っちゃってる と いうコトから逃れられない。」
鹿島:「そこが人間が、動物とかそういうのと違う 不幸で・生きるのがつらい すべての辛さっていうのは、その “死”のことを考えちゃう。これをパスカルはキリスト教の用語で、“原罪”だ と。」
島津:「『考えることは“原罪”。』」

思えば、自己愛は生命そのものの働きなのだから、それだけを原罪としてしまうと生命一般が原罪を背負っていることになってしまう。そこで、原罪=自己愛+思考。かくすれば「死を思う」ことが出来るのは人間だけだから、人間のみの原罪となって辻褄も合う。

そして、パスカルの更にエライところは思考は原罪のみならず尊厳でもあると言っているところ(ここも先ほどの記事からコピペ)。

鹿島:「これはですね、考えるということを さらに考える。考えることは“原罪”である というコトを さらにもっと考えると、これは“尊厳”になるかもわからない っていう。 だから 人間は“死”のことを考えますね。そして不幸になりますね。しかし“死”のことを考えることを また考える。…こういうですね人間というのは、ある事柄を もう一段階繰り上げて考えるというような思考が出来るんですよ。それが出来るか出来ないかが人間とそれ以外の違い だと。」

嗚呼、また俺はカシコクなってしもうた。鹿島解説本第4回「人間は考える葦である」を余してパンセを読み終えた気分なり。

2014年11月05日(水)

柳沢峠からの富士と恵林寺屏風 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 「若者たち」映画三部作 完全放送無料放送録画、まずは第1作「若者たち」、ド派手な兄弟喧嘩が売り物だった左翼ドラマ(しかも放送したのがフジテレビ)。金と魂の二項対立が図式的に過ぎるがBD保存する。
posted at 05:00:35

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2014年11月 5日 (水)

明日の句会準備

穴惑スマホ画面の創世記
愛するは今やふるさと多摩紅葉
極楽におはす阿弥陀や秋の水
盆栽の如き紅葉松ありて
秋の声草野心平文学館
天才の善人顔や天さやか
傘片手カメラ片手の初紅葉

2014年11月03日(月)

ポプラフスカヤ、キリコ、人生の意味 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 『ヴェネツィア、パラッツォ・ドゥカーレ』1957がキリコらしくなくて面白かった。「吟遊詩人」は2点あったがオリジナル1955年の方がいい。後年は生命力衰退としておく。主要作品画像はこちら参照。
posted at 05:15:23

2014年11月04日(火)

柳沢峠から富士ベストショット。 pic.twitter.com/ErecJqhRU8


posted at 12:48:17

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2014年11月 3日 (月)

肉の生活を全うしつつ外へ

はじめて読む聖書 (新潮新書) はじめて読む聖書 (新潮新書)
田川建三ほか

日本霊性論 (NHK出版新書 442) 街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる) イエスという男 第二版 増補改訂 60歳からの生き方再設計 (新潮新書) キリスト教思想への招待

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昨日のブログ「責任方程式」を思い起こしながらプールで泳いでいたら、そうだ、そうなんだ、人生の意味に思いが至ったのだと改めて感じた。

人生は固有から普遍への旅、神にも人にも責任を果たしつつ、霊を裏切らずに肉の生活を全うする。

短歌旧作「エロスより出でてエロスへ環り来む意味を求めてめぐりし後に」だったが、森有正のお陰でまた意味に戻りつつある(要するに現在の境涯が暇人だからこんなことも考える)。

そして、図書館順番待ちしていたリクエスト本「はじめて読む聖書 (新潮新書)」を昨日入手して読み始めたら

内田樹氏
「ユダヤ=キリスト教の伝統のなかで、思想史的にもっとも重要なメッセージは『今あなたがいるその場所から立ち上がって、知らない世界に向かって歩み出なさい』という教えに集約されます。自分が閉じ込められている檻から出よ。自分が生まれついた風土から外へ出よ。聖書の発信するもっとも根源的な指南力は、この『外へ』というメッセージに尽くされるのではないかとぼくは思います」

「固有から普遍への旅」は単純にひとことで「外へ」。「肉の生活を全うしつつ外へ」が我が人生の意味なり。創世記12-1よりコピペ。

1 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。


2014年11月02日(日)

ショスタコ5番、旧約聖書創世記、デミ・ムーア plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… Shin相変わらず喉使ってるのを指摘される。エク試演会11/22案内が来ていたけどやっぱりShin優先と諦める。
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#photoikku 穴惑スマホ画面の創世記  #jhaiku pic.twitter.com/APFeke2zZc


posted at 07:25:29

#photoikku エロスから戻りて意味へ落葉踏む  #jhaiku 短歌旧作「エロスより出でてエロスへ環り来む意味を求めてめぐりし後に」だったが、森有正のお陰でまた意味に戻りつつあり。app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/137… pic.twitter.com/B3bIC0sTMR


posted at 10:37:58

#photoikku 秋時雨汽笛一声新橋を  #jhaiku キリコ展@パナソニックミュージアムのすぐ傍に0マイル標があった。 pic.twitter.com/0ttOhHRwkW


posted at 16:04:12

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2014年11月 2日 (日)

責任方程式

旧約聖書と現代 (NHKライブラリー) 大島力旧約聖書入門―光と愛を求めて (光文社文庫) 三浦綾子のお陰で旧約聖書(特に創世記)の面白さに目覚めた。生々しい人間ドラマがそこにはある(アブラハム、ロト、ヨセフなど)。

そこで、スマホで創世記を読み始めたが、他方、もっと解説書も読みたいと市立図書館検索したらアブラハムの生涯―森有正講演集 (1980年)発見。どんな内容かとググって次の記事コピペ。

責任ある生き方
 森有正というキリスト者である哲学者が、アブラハムの生涯をテーマに語った講演集である『アブラハムの生涯』という本があります。その中の、この23章についての講演にこのように語られています。「この水と油のような二つの世界、霊の世界と肉の世界、この二つをアブラハムの生ける人格だけが結びつけて支えている。私はこの二つを結びつけて支えることを『責任』と呼びます。それ以外に呼びようがない。責任ということは何だ、いろいろなことを皆言いますけれども、根本は霊としての私どもと肉としての私どもと、この二つを私どもの中において一つに結びつけてしっかりと握って離さない、それが私は責任ということの一番深い意味だと思います。神に対して責任を持つ、人に対して責任を持つ、それは具体的にはどういうことですか。それは私どもの中にある霊と肉の二つをしっかり握って、霊を裏切らずに肉の生活を全うすることでしょう。それ以外に責任という言葉はどこにも使いようがないでしょう。それはたとえどんな小さな責任でも本質は同じことです」。

ああ、責任かあ。最も苦手な概念やなあ。でも、森はこの概念が好きなんだなあ。内村鑑三論の中で「全能の神の前に責任を負ふ霊魂」という表現もしているし。

ということで得意の人生方程式、今回は責任編(前回は普遍編)。

責任=肉(損得、好き嫌い、善悪、理非)+霊(苦楽、美醜、虚実)
人生=自力(損得、好き嫌い、善悪、理非)+他力(苦楽、美醜、虚実)

人生は固有から普遍への旅、神にも人にも責任を果たしつつ。

2014年10月31日(金)

贖罪と大腸ポリープとSIMフリースマホ plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… パスカルは入門書ですら読んだことが無かった。終活は信仰遊び薔薇の門以来のキリスト教研究の成果があってか、心に沁みる部分あり。俗世は自力合理的に、來世(魂)は信仰にと楕円形で生きたパスカルと我が
posted at 05:07:49

2014年11月01日(土)

デーヴィッド・スターン、矢内陽子、大竹しのぶ×ヨーヨーマ plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… ヤフーメールのアドレス帳で少々苦慮/アドレス帳修正しても反映されず、クッキーかなあとクリアしても変わらず、試しにログアウト、ログインしたら反映された。オカシイなあ、前はこんなこ
posted at 05:13:43

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