
霊界のイエスにメールを何度もしてようやくインタビュー実現。以下、その実録。
Q:イエスさん、この度はご多忙中の所、まことに有難うございます。率直に伺います。
A:ああ、ええよ。俺のところに仰山メール・FAX来るんやけど、あんたのモットー「人を愛しても信じはしない」に共感して顔合わせする気になったんやから、なんでも訊いてや。
Q:ああ、そうですか。それは大変嬉しいです。そういえば、イザヤ書二章に「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか。(22節)」とあるようですね。
A:ふっふっふ。よう勉強しとるやんかあ。それはともかく質問始めてくんなはれ。
Q:そうでした。では、早速。十字架の神学についてお伺いしたいんです。
聖書読むと、智慧の実により人は原罪を得てしまったのですが、原罪はイエスの死により贖われた筈なんですよ。
イエスは全人類の罪を背負い、十字架に架かった。イエスの死により原罪は贖われ、人はアダムとイヴの十字架より解放された。
だからイエスの行為(十字架に架かった事)は尊い訳で。
イエスにより人が原罪から解放されたなら、生まれてきたその時点、「原罪を背負ってない」という時点で、
分かり易い現世利益なんかくれなくっても、実は既に福音を受けてる事になる訳です。
(イエスが贖ったんだから、今の人間が原罪背負ってるはずはないって、この辺もルターの主張内容)
つまり、あなたは全人類に代わって贖罪されたことになってるのですが、いかがですか。
A:あーあ、その件か。そんなん俺は知らん。パウロやルターとかいう奴がでっちあげたんとちゃうか。
Q:そうおっしゃると思いました。では質問を変えて、どんな心境で十字架を背負われたのですか。殉教者として後世にキリスト教を残そうと考えられたのでしょうか。
A:滅相もない。キリスト教なんか俺とは無関係や。パウロが作り上げたパウロ教やで、あれは。
Q:では、ご自身の受難が世の人々に与える影響は全くお考えにならなかったのですか。
A:いや、そんなことない。俺も人間やからなあ、世間を全く気にせんと言うたら嘘になるわなあ。
Q:そうですよね。あなたは「カエサルのものはカエサルに,神のものは神に」なる名言を吐かれた方ですものね。あなたは内村鑑三をして「真理は楕円形」に導かれたと思っていたんですよ。
A:ふむふむ、ええこと言うやんかあ、内村なる男は。あんたも「我が得意の人生方程式も楕円形(世間と魂、自力と他力)、そして信仰も(神と人、義と愛)」と続けとるしなあ。
Q:いやあ、恐縮です。話を戻して、あなたが従容として受難を受け入れたのは当時の世間に、愛の信仰を広めたいとのお考えだったのですか。
A:まあね。当時のユダヤ教支配層は形式化権威化しとったからね。それに対する反発はあったよ。義と愛のバランスが生きるためには必要と俺は説いたんよ。
Q:そうすると、あなたの受難は世の中に愛を広めるための自己犠牲と考えていいでしょうか。
A:うーん、十字架の神学/贖罪論よりはマシやけどちょっと違うなあ。俺は何かのために犠牲になるとか犠牲にするなんて嫌いや。
Q:では「自己贈与」ならどうですか。
A:五十歩百歩やなあ。俺の気持ちはそんな概念的やのうてもっと切羽詰まっとったんよ。世界の不幸や苦しみを切実に味わいたい、そうでないと俺の人生が無意味になる。シモーヌ・ヴェイユとかいう女が(小難しいけど)うまいこと言うてるやろ。
Q:ああ、これですね。
隣人愛は愛する者を取り込んで所有するような愛ではなく、絶対者に対する無条件の愛を他者にも及ぼそうとするものであり、『小さく弱き者』に対する“注意力”によって隣人愛は発揮されることになるのである。神への集中した注意力こそが“祈り”であり、注意力の働いている祈りは個人の私欲に塗れた思考を停止させて、無欲かつ純粋な神(真理)を待つ待機状態を準備することになるのである。『美』だけではなく『不幸』が真理に至る道になっているというのは、不幸が個人の思考を停止させる役割を果たして、無欲・純粋な神を待つ待機状態につながっているからである。
A:そやそやそれや。自分を不幸な状態に置くことで本当の愛を実感できるんとちゃうかなあと思ったんよ。愛は憐れみや同情とちゃう。愛は実践やと胸を張りたいのもちょっとはあったかもしれんなあ。
Q:イエスさんにドーダ理論があてはまるとは驚きです。
A:当たり前やんかあ。原罪=自己愛+思考は俺にも当てはまるんよ。俺にも自己愛があるから、杭殺柱に縛り付けられ残虐な目に遭うた時はその余りの辛さに神を恨んだよ。自分で選んだ道やのになあ。
Q:エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)ですね。では、(ゴメンナサイ、きつい質問で)ひょっとして後悔されたのでは?
A:(キッパリと)それは無い。断じて無い。愛を実践するのが俺の人生やったんや。
ヴェイユ「幸福な人において、愛とは、不幸のうちにある愛する人の苦しみをともに分かちあいたいとねがうことである。不幸な人において、愛とは、愛する人がよろこびの中にいることを知るだけで満たされた気持ちになり、そのよろこびにあずかることなく、あずかりたいと望むこともしないことである」をよう噛み締めたって。俺は不幸の中で幸福(苦楽、美醜、虚実の無限遠点)やったんよ。悲惨な死を選ばねば俺の人生に決着はつかなかったんや。
Q:有難うございました。あなたの受難の意味の幾分かはお陰様で分かったような気持ちになりました。
人間は水と油のような霊と肉の構成物。偉大なイエスは受難を自ら選びとる自己贈与(愛の実践)によってその人生を終えたが、痛いの苦しいの嫌いな凡人にはそんな真似は到底出来ない。であるならばせめて我が人生の横軸の極小化を目指したい。
人生=横軸(損得、好き嫌い、善悪、理非)+縦軸(苦楽、美醜、虚実)
他人と比べる人生を極小化すること。自己贈与(愛の実践)なんて出来ないけど肉の死(癌なのか何なのかわからんが)の前に霊の決着は達成したいなあ。それが人生の目的だ。横軸においては自分が自分でなくなれ南無阿弥陀仏。
以上、読了未了だが冨原真弓「ヴェーユ」のお陰です。
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