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2014年11月10日 (月)

「アブラハムの生涯」Ⅲモリヤの山

創世記22章

9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」 13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。 14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

神はアブラハムを約束の地に導き、イサクという叶わぬ筈の息子まで与えたが、今度はそのイサクを生贄として差し出せと命じた。信仰篤きアブラハムが神に何一つ訊こうともせず従順に従おうとしたその刹那、神はそれを差し止めた。

森有正はこの物語を下のように読み解く。

出発は、私たちを縛り、子どもの状態にしていたものから、促しに従って自分の良心に従って、自分の歩みを始めることである。従ってそれは自由の瞬間である。しかし、人間は神との契約に入ると、今度はその自由を失うのである。生きるも死ぬのも、そこにおいてしなければならなくなる。社会で生きるということはこの自由を失うことである。人間はそうでなければ、本当の生きがいを見出すことはできない。新しい契約を結んで、約束の地に入ることは、その人の名前が新しい意味を持ち始め、名前が変わり、もうほかの人では代わることの出来ない人間になる。公的なものになり、社会的なものになる。本当の社会というのは、自分の目標、自分の仕事、自分の目指すところのものと契約関係に入った大人が、相互にかけがえのない成員として形成するものである。人間が契約を通して自分の生きる目的のためにもはや自由ではなくなる。その中ですべてを捧げなくてはならなくなる。そういう契約が一人一人に決定する時、本当にすべての人が同じ権利をもち、平等となり、すべての人が人格を持って接することができる民主主義社会が出現するのである。

約束の地へのアブラハムの出発は「自由の瞬間」である一方、神との契約により彼は「自分の生きる目的」を設定し、自由を失う。これが全ての人が平等となり人格を持って接する民主主義社会だという(まあ、理想型ではあるな)。

なんでここまで厳格な契約で人間を縛ろうとするねん?という疑問に対して森有正は答えを用意している。それは

人間の感情はそれ自体にまかせられると必ず悪化し、激化し、自らを破壊するに至る、と私は考えています。ですから、人間の感情、個人的なでも、あるいは愛のような感情でも、あるいは破壊的なもっとも大きな感情でも、何か自分の運命と絶えず接しているところにそれを置かなければならない。これが感情というものに対する人間の大きな秘密だと思います。p108 

何か自分の運命と絶えず接しているところにそれを置」くこと、それが神との契約(運命)だと思う。人間はその自由な決断(内的促し)によって運命(生きる目的)を発見する。それが信仰だと理解した。汝弱き者よ、そこまでの覚悟がお前にあるか?

2014年11月10日(月)

検査食そして断酒、倶会一処、ジャッキー・ロビンソン plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 信仰は根拠・理由のなき内的促し(経験)ということだ。そんな内的促しの訪れを神の恩寵(回心)と考えておけば、俺にもいつか回心があるかもしれない。
posted at 05:26:07

内視鏡検査終了0ポリープ慶賀^_^
posted at 13:30:37

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