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2014年11月 9日 (日)

「アブラハムの生涯」Ⅱ約束の地

創世記15章

15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

これがアブラハムの信仰。そして、森有正は信仰と信頼の違いについて下のように書いている。

信仰と信頼は別物である。信頼は、裏切られたと言う言葉を伴うが信仰は裏切られると言うことは起こらない。信頼とは、問い詰めていくと、信頼する根拠をその人自身の他のものに信頼している事である。たとえばお金持ちだから、困ったときはお金をくれるであろうとか。根本において何かを当てにしている。
しかし、アブラハムは神への信頼ではなく、神を信仰していた。
それは「アブラハムはこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」(ローマ人への手紙4章17,18節)。
アブラハムの出発はこういう信仰によってのみ正しく理解される。内的な促しというのは、こういう人間の状態をさす。

信仰は内的な促し。だから、信仰にはそれ以外の根拠はなく、裏切られることもない。なるほどなあ。

そしてまた、信仰に理由も要らない。

私は、ある人が、これは大変に尊敬に値する方でありますが、お釈迦様とか、それから孔子とか、そういう人たちの言い、書き残したものを読んで、整理して、これは仏様の教説である、これは孔子の倫理思想である、というように非常にまとまった学問的な論文を書いたことがあります。それで私にそれを下さいまして、その方は私より少し後輩に当たる人で、私に意見を求めました。その時私は申し上げたのです。私は学問的に、そういうものを批判する資格は全然ないのですけれども、その本を見ると、仏様も孔子もみんな分かってしまうのです。どういう原理から出発して、どういう説を立てて、どういう論理がそれを支配しているか、非常に手に取るように分かる。けれどもそれは、それを理解した人の経験から出てくるものにすぎない。ところが、釈迦とか、ソクラテスとか、そういう人がどういう経験を持っていたか、どういうものを見ていたか、それを私どもは決して知ることができない。彼らの書いたものから察しますと、人間の経験にはすべて肉眼で見るように地平線がありますが、その地平線から先はどうしても見ることができないのです。ところが、高い山があって、その上に人が立っています。それは私どもの見ることのできない地平線の向こうを見ています。その向こうを見ている人が、何かを言ったり書いたりすると、私どもはそれを理解しますけれど、その中に私どもの理解を超えるところが出てくる。それは私どもの見ないものを見ているからです。それを私どもの知恵でもって一つの理論の体系にしたり、組織したりするということは間違いです。むしろそういう私ども人間の経験の、限界である地平線の上に立って、その向こうを見ている人が何人かおりますが、その人から私どもはただ謙遜に学ぶ以外には何もできないのです。
 ここで一つ、これはこういう問題とは直接関係はないのですけれども、十四、五年前に死にましたアランというフランスの偉い哲学者がおります。皆さんもその全集が日本で出ておりますから、お読みになった方が非常に多いと思います。そのアランが書いております。「すぐれた人の本を読む時に、私のただ一つの方法がある。それはその書いたものは決して間違えていない。間違いを絶対に含んでいないという確信のものとにその本を読みだす」と。そうすると、私どもが自分でもってその本を判断しようとして読んだ時よりも、実に多くのものがたくさん分かってくる。この本に書いてあることは正しい。もし分からないことがあると、その人が書いたいろいろな本を読んで、その分からないことを理解しようとする。

信仰においては信じることが先立つことが前提。だから、神は神を従順に信じたアブラハムを義とした。また、他者の経験(固有から普遍への旅)の中にはその立ち位置の高さ故に理解し難いものがあっても謙虚に学ぼうとする以外にはない(もっと言うと、経験はどんなものであってもその固有性故に完全な相互理解は不可能)。

つまり、信仰は根拠・理由のなき内的促し(経験)ということだ。そんな内的促しの訪れを神の恩寵(回心)と考えておけば、俺にもいつか回心があるかもしれない。

2014年11月09日(日)

アブラハムの生涯、戸手教会、白龍館ライブ plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 外国に行くことはもう(多分)無いけれど、せめて書物と音楽とネットの中では外国を知ることに努めよう。人生は固有から普遍への旅、神にも人にも責任を果たしつつ、霊を裏切らずに肉の生活を全うするのが我
posted at 05:09:33

#photoikku 肛門に入れるカメラや冬に入る  #jhaiku 明日の大腸内視鏡に備えて今日は検査食。そして断酒(−_−;) pic.twitter.com/3brssghd29


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#photoikku 長生きをさせて下さい神の留守  #jhaiku pic.twitter.com/nkHqcfdk9j


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#photoikku 還暦のデュークエイセス冬ぬくし  #jhaiku pic.twitter.com/EfuDPVLUcY


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デューク・エイセス吉田一彦、病気療養で活動休止 全国ツアー初日に発表 - SANSPO.COM www.sanspo.com/geino/news/201… テレビを見ててあれ?と思った。お大事に。
posted at 08:59:37

RT @PenseesBot: 人は精神が豊かになるにつれて、自分の周りに独創的な人間がより多くいることに気がつく。しかし、凡庸な人というのは人々のあいだに差異があることに気づかない。(断章七)
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#photoikku 生き甲斐は死に甲斐のこと冬の蝿  #jhaiku 写真は昼の検査食。こころの時代~宗教・人生~「わたし流 理想の末期の迎え方 pic.twitter.com/1i5mcO3fht


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#photoikku 夕食のスープ一杯冬満月  #jhaiku さあ、明日は大腸内視鏡検査。 pic.twitter.com/3P0Xlentm8


posted at 18:42:44

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